コリアンや左翼マスコミの主張は何だか変だぞ。と思ったことはありませんか?自分達の基準や利害を優先して、嘘と誇張で日本の国益に反することを平気で行っているようにも見えます。そこでこのページでは、彼らの主張と相反する資料を集めて編集し、別の立場から見てもらうことにしました。あなたは第三者として双方の違いを比較検討して、正しいと思われるものを自分の意見の参考としてください。




日本から見た韓国併合反日史観を糺す

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韓国併合までの歴史 / 韓国併合


日本から見た韓国併合 2

閔妃暗殺 / 武断政治 
三・一運動の弾圧 / 独立運動家の弾圧と拷問



『日本人は正しい歴史認識をしなければならない』と韓国人や日本の左翼が言います。しかしそれは彼らにとって都合のよい歴史観を押し付けることでしかありません。例えば伊藤博文を暗殺した安重根という人物は、韓国の英雄であり日本の歴史教科書でも明治維新の元勲よりも大きく扱われています。しかし北朝鮮での評価では、安重根は愚か者の代表になっているそうです。『力もないのに伊藤博文の暗殺を計画し、暗殺そのものには偶然成功したものの後が続かず、自身は逮捕されて処刑されるのみならず、日朝(韓)併合の直接のきっかけを作ってしまい、歴史に大きな汚点を残した張本人である』リンク先参照と言っているのですから、同民族であっても立場が違えば全く異なる評価をしているわけです。このように事実は一つでも解釈は多様なのですから、彼らの押し付ける『正しい歴史認識』というのも疑ってみる必要があります。そこでこのページでは、それを検証するために韓国人の主張と相反する資料を集めてみました。


このページの見方

韓国人の主張

それに対する反論



. .西洋列強の接近から韓国併合までの歴史
1840 英清間にアヘン戦争がおこる
1853 ペリー提督率いる米艦隊が開国を要求して日本に来航
1866 米商船、仏艦船が朝鮮に来航するも撃退される
1868 明治維新、新政府樹立を告げる国書を朝鮮に送るが受け取りを拒否される
1873 西郷隆盛らの征韓論おこる
1875 江華島事件がおこり日朝交戦となる
1876 日朝修好条規が締結され朝鮮が開国する
1882 守旧派の壬午軍乱おこる
1884 開化派による甲申政変おこる
1885 漢城条約・天津条約締結、イギリスが巨文島占領、朝露秘密協定が発覚する
1894 東学党の乱(甲午農民戦争)から日清戦争へ
1895 下関条約で朝鮮独立承認・遼東半島を獲得するも三国干渉をうけ返還、閔妃暗殺事件おきる
1896 高宗国王が宮殿を捨てロシア公使館に移り住む(露館播遷)
1897 国号を大韓帝国と改める
1900 清国で義和団事件(北清事変)がおきロシアが満州に出兵
1904 日露戦争がおきる、日韓議定書・第一次日韓協約締結
1905 日露講和(ポーツマス)条約・第二次日韓協約(日韓保護条約)締結、統監府設置される
1907 ハーグ密使事件の責任をとり高宗皇帝退位、第三次日韓協約締結
1909 伊藤博文が暗殺される
1910 韓国併合

韓国から見た韓国併合に至る歴史 <甘口> 
Link 「韓国の歴史」と日本(国定韓国高等学校歴史教科書) / 近代社会の発展
在日朝鮮人から見た韓国併合に至る歴史 <小辛>
Link 九州朝鮮高級学校 / 在日朝鮮人の形成と現状


日本から見た韓国併合に至る歴史

19世紀の世界は弱肉強食の帝国主義時代で、国家がその時代の競争に負ければ、亡国か植民地に転落していったのは、近現代史の厳然たる史実である。(⇒資料1)19世紀中葉には東アジア諸国にも、強力な軍事力を背景にした欧米列強諸国が進出を始めており、大国の清でさえアヘン戦争(1840年)以後、分割や植民地化の危機にさらされていた。日本はこの危機に直面して、いかに独立を保つかが国家目標となり、明治維新(1868年)を成し遂げて、富国強兵の近代国家造りに邁進していた。しかし李氏朝鮮は世界の大勢を見誤り、鎖国を守り清の属国であり続ければ国家の存続を保てると考えていた。そのため国王高宗の摂政として政権を担当した大院君は、衛正斥邪(儒教を守り攘夷を行う)を唱えてキリスト教を邪教として弾圧し、8000人の信徒を虐殺(1865年〜)して西洋列強を刺激したうえ、来航してきた外国船に攻撃を仕掛ては緊張状態を高めていた(1866年〜)。しかしそれは本格的な戦争に進展すると、敗北して植民地に転落しかねない危険なものだった。また大院君の鎖国政策に伴って、両班支配層内部に朱子学の名分論を固守する攘夷主義者が台頭し衛正斥邪派が形成された。

1868年日本は明治新政府樹立を告げる使節を朝鮮に送るが、国書の文面に天皇の皇という中国皇帝と同格の称号が使われているのは許されない、という理由で(⇒資料2)国書の受け取りを拒絶された(書契問題)。朝鮮は中国の属国という立場に忠実に従っていたのだ。その後も国交と通商を求める交渉を続けたが、頑なに国を開こうとしない朝鮮に、日本は大きな危機感をもった。早急に開国して近代化と富国強兵を推し進めなくては、遠からず欧米列強の支配下におかれることになってしまうからである。そうなれば日本は脇腹に刃物を付きつけられたようなもので、隣国の日本は窮地に立たされることになるというのが、当時の共通認識であった。そうした緊迫した世界認識の中で、武力をもってでも強引に朝鮮を開国させるべき、という考えがおきた。1873年西郷隆盛らが征韓論を主張するが、この時は大久保利通らの内治優先論者によって退けられた。大院君は対外的危機に対処するため王権の強化をはかったが、両班の特権に一部規制を加えたことから両班層の強い反発を受けることになった。また、多額の費用がかかる景福宮再建の財源を捻出するため、多額の増税を行ったため経済が疲弊し、大院君の施政に対する民衆の不満が高まってきた。王妃閔氏一族はこの機会をとらえて大院君を政権から追放した。この政変によって大院君直系の官僚は政権から追われ、代わって閔氏一族の勢道政治が始まった(1873年)。閔氏政権の下では大院君以来の宮殿の造営が続けられており、高宗国王と閔妃の浪費もあいまって財政は悪化の一途をたどり、数年のうちに兵士の俸給の支給にも困窮する事態に陥った。また官職や科挙の及第を売買するなどして権力の腐敗が進んだ。

日本政府はその後の国交樹立交渉も不調に終わったため方針を転換した。アメリカの黒船が浦賀に来航して日本に開国を強要したのにならって、1875年軍艦雲揚号を江華島沖に送った。江華島の守備兵が発砲したため交戦し、江華島を占領した(江華島事件)。日本はこの機をとらえて、朝鮮に開国を強要した。衛正斥邪派の崔益鉉は、華夷思想に基づいた強硬な開国反対論を国王に上疏したが、翌1876年両国間に日朝修好条規(江華島条約)が締結されて朝鮮は鎖国を終了し開国した。この条約の第一条は、朝鮮を「自主ノ邦」と規定して、独立国として扱っているが、これはそれまでの中国を中心とした国際秩序を破るものであった。日本が朝鮮を独立国として扱ったのは、朝鮮を植民地化の危機にある中国の影響下から切り離して、親日政権をつくることを狙ったからであったが、この時点では、支配下に置くことは考えていなかった。19世紀末期は帝国主義の全盛期で、日本は朝鮮半島がその帝国主義勢力の前進基地となることを恐れた。朝鮮半島は日本にとって、大陸から日本列島の脇腹に突きつけられた短刀であったから、何よりも朝鮮半島の無害化をはかり、親日政権をつくる必要があった。そこで日本は、朝鮮が他国の支配下に入ることがないように、朝鮮の近代化を助けて、しっかりとした独立国として育てようと図った。閔氏政権に対し通商を拡大して近代的軍備を導入し、西洋の学問・技術を学んで殖産興業をはかる富国強兵の道を歩むことを勧め、視察団と留学生を受け入れた。まだ軍事力の脆弱な日本が独立を守るためにも隣国朝鮮が安定して独立していることが、どうしても必要であった。

開港後、日朝貿易は急速に拡大した。日本からは主に綿製品が輸出され、朝鮮からは主に米が輸出された。米の大量輸出は商人や地主・農民には利益をもたらしたが、国内における米の供給不足を引き起こして米価騰貴が深刻化した。飯米購買者である都市民衆の生活が圧迫されて日本に対する不満が高まり、衛正斥邪派からも開化政策に対して反発が広がった。閔氏政権は日本の協力のもと近代的軍隊である別技軍を新設し、日本人教官を招請して、教練を始めていたが、1882年7月、ソウルで旧式軍隊が反乱を起こした(壬午軍乱)。反乱に火をつけた直接の理由は、政府高官が旧式軍隊に給与として支払われていた米の一部を横取りしたのに対して、兵士の怒りが爆発したものだった。それに旧軍隊は、別技軍が装備と待遇の面で優遇されていたのに対しても憤っていた。旧式軍隊の軍卒は、官庁や閔氏一族の屋敷を襲撃するとともに、開化反対を叫ぶ漢城(ソウル)の民衆も日本公使館を襲撃するなどして多数の日本人を殺害した。また閔妃を攻撃の的にする一団も王宮に乱入して高官を殺害した。このときに閔妃は、変装して王宮から脱出した。壬午軍乱は、大院君が裏で煽動していたものだった。閔氏政権が倒れ、大院君が再び政権を握った。

日本は居留民保護のため軍艦4隻と兵士を朝鮮に派遣した。政権を奪われた閔氏一派は清国に反乱鎮圧を要請した。清国もただちに宗主国の責任として、軍艦6隻と3000人の兵を派遣した。壬午軍乱は、清国軍によって鎮圧された。大院君は閔妃の告発によって清国軍に捕らえられ、天津へ連行された。国王高宗が、実父の大院君が強制連行されるのを認めたことからも分るように、清の朝鮮に対する宗主権と冊封秩序は、いささかも揺らいではいなかったのだ。大院君一派はことごとく投獄され、閔氏政権が復活し、清国の庇護のもとにおかれた。清国は軍隊をそのままソウルに駐留させ、政府に顧問を送り込んで、韓国の内政に細部にわたって干渉した。8月日本は朝鮮との間に済物浦条約を結び、日本人被害者への見舞金支給と賠償支払い日本公使館への警備兵駐屯を取り決めた。同じ頃アメリカ、ロシア、ヨーロッパ諸国が、次々と朝鮮と修好通商条約を締結して進出をはかるようになった。朝鮮の宗主国清は、列強諸国や日本が朝鮮に積極的に進出をはかっていることに対して、警戒心を強めるようになった。

閔氏政権は、開化政策を進めるのにあたって日本式を採用していたが、日本が清国に対して有効に対抗できないでいるのを見ると、日本はたのむに足らずとみなして、清国に依存するようになった。閔氏一派は清国に依存したから、事大党と呼ぱれるようになった。清国は顧問を送り込んで、朝鮮との朝貢体制と華夷秩序の強化に努め、西洋列強の進出から自らの威信と権益を守ろうとした。しかしそれは、朝鮮を清国から独立させて富国強兵の国とし、西洋列強の極東進出を阻止させる、という日本の政策とは合いいれないものであった。朝鮮内部からも清が事大党を操縦して軍事も政治も左右する状態に反発して自主独立を主張し、近代化のモデルとして日本に学び、日本の協力を得ようとする開化党が行動をおこした。それにはまず清国との封建的従属関係を断つことであり、そのためには朝鮮国内の事大党を排除することが必要であった。1884年12月、福沢諭吉の後押しを受けた開化党の金玉均らがクーデターを起こし王宮を占領した。閔妃を中心とする事大党政権を打倒して、開化党を中心とする新政府を組織した(甲申政変)。しかし閔氏政権の生き残りが清国軍に鎮圧を要請した結果、袁世凱の指揮する清軍に破れクーデターは三日天下に終わって失敗した。この時多数の日本人が殺され、掠奪暴行の惨劇がひき起こされた。開化党リーダ―の金玉均は日本へ亡命した。開化独立推進勢力が清国と朝鮮守旧派によって無残に踏みにじられたことに福沢は失望し、時事新報紙上に「脱亜論」を公表し「我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と隣国に決別宣言をした。福沢の従来の構想は「アジアの隣邦を誘掖(手を取って指導する)して近代文明国家たらしめ、共に独立を全うして西力東漸(西洋の侵略)を防がねばならぬ」というものであった。日本は近代化で先んじていたが、まだ西洋勢力に単独で対抗するだけの国力がなかったのである。

翌1885年1月、日朝間で甲申政変での日本側の被害の賠償などを取り決めた漢城条約を結んだ。次いで4月、日清間でも甲申政変後の朝鮮問題に関する取り決め(天津条約)を結んだ。伊藤博文と李鴻章が会談し、朝鮮からの両国軍の撤退と、重大事変などが発生した場合に、朝鮮に出兵する際の相互事前通告などを取り決めた。同年1月、朝露秘密協定事件が起こった。閔氏政権が、中国の宗主権強化政策が目にあまるようになったのに反発して、ロシア勢力を朝鮮に引き入れてバランスをとろうと秘かに折衝していたものであったが、清が途中で知るところになり、交渉が打ち切られた(6月)。密約問題は朝鮮を英露の国際対立の中に巻き込んだ。4月イギリスが、南下政策を見せ始めたロシアに対抗するため、東洋艦隊を用いて日本の対馬に近い巨文島を占領し(〜1887年2月)、ロシア極東艦隊の航路を牽制するため、守備隊を常駐させて砲台を設置した。6月にはベトナムがフランスの保護領となり、加速度的な西洋列強の進出は日本に深刻な衝撃を与えた。

朝鮮駐在の袁世凱は李鴻章の戦略に基づいて清の宗主権強化に努めた。袁は諸外国の公使と地位が異なり、国王代理といえる監国として朝鮮の実権を握っていた。1886年6月国王が再び朝露秘密協定を結ぼうと謀った。ロシアが朝鮮に軍事教官を派遣するのと引きかえに、ロシア海軍に北朝鮮東部に位置する永興湾の使用を許すというものだった。袁は国王の廃位をも辞さずとの強硬な圧力を加えて、この企てを破棄させた。朝鮮国王の即位・廃位の権限は清朝朝廷にあったのだ。8月清国は拉致していた大院君を帰国させた。国王と閔氏政権がロシアへの接近をはかるかたわら、清国から離れようとしたために、大院君をつかって親露勢力を牽制させるためだった。このように清国は日清戦争に至るまで朝鮮の内政外交に強力な干渉を加えたのである。1891年ロシアはシベリア鉄道の建設に着手したが、完成すればモスクワから極東まで鉄道網でつながり、ロシアの勢力が一挙に南下を目指すことは火を見るより明らかであり、日本はロシアに対する警戒をいっそう深めた。朝鮮のなかでは、各派がさまざまな思惑から、清国、ロシア、日本をはじめとする外国勢力と結んで、勢力争いを繰り広げた。

朝鮮の貿易は急速に拡大し日本向け輸出の大半は穀物であった。朝鮮内では米価騰貴が深刻化し、飯米購買者である都市民衆の生活を圧迫していた。このような状況下で、米騒動による民衆反乱を恐れた朝鮮政府は、穀物の外国搬出を禁止する「防穀令」を発したが、日本商人が前貸しによる穀物買い付けを行っていたため損害を受け、日朝の紛争に発展したが、朝鮮政府が賠償金を支払って解決した(1893年)。日朝間で人的交流が進むなかで摩擦も深刻になってきた。朝鮮人は華夷思想で日本人を侮蔑し、日本人の中には朝鮮人の性行をあざけって横柄な態度をとる者が現れ、人心を離反させるということもあった。閔氏政権の政治路線は守旧派であり、支配体制を大きく変更することなく変革しようとはかった。近代産業の導入は官営事業において試みたが成功は収められなかった。これらの官営事業費用や外交費、軍隊の維持費、賠償金や借款の償還金が急増したことは、宮廷の浪費と共に国家財政不足を深刻化させた。財源確保の安易な方策として悪化を鋳造したため、物価はたちまちのうちに暴騰した。閔氏政権は財政破綻を繕うため外国に対し借款を重ねる一方、租税収奪を強化したため民衆の不満が高まった。また両班官僚の腐敗が甚だしくなり、売官・売職は常態化し賄賂が横行した。地方官がその地位を利用して買官に要した費用を埋め合わせたり、財産蓄積をはかることは一般的となり、民衆に対しては種々の名目による課税が加重されることになった。こうした収奪の強化は国家・両班官僚と民衆との反目を加速させた。そのため全国の多くの郡県において地方官の誅求と悪政に反抗する民乱が起きるようになった。

1894年2月、東学党の乱(甲午農民戦争)が起こった。東学農民軍は酷税の廃止、地方官や両班による不正の処罰、身分制度の打破、横暴な特権商人追放を要求として掲げた。東学軍は閔氏政権に対する蜂起であったが、「斥倭洋倡義」(日本・西洋勢力の駆逐)も唱えた。農民軍は政府軍を破って、全羅道の中心である全州を占領した。政府は3000人あまりの官兵しか動員できず、武力で農民軍を鎮圧することができなかった。そのため国王高宗と閔氏政府は、清国に鎮圧を要請した。清国はこの要請を朝鮮において勢力を拡大する好機としてとらえ、清国軍が大挙して朝鮮に入った。日本も天津条約に基づき日本人居留民保護のため朝鮮へ派兵した。ところが農民軍が朝鮮政府の説得を受け入れて全州を撤退したため、朝鮮政府は両国軍に撤兵を要請した。しかし日本政府は、閔氏政権が抜本的な内政改革を行なわなければ内乱が再発してしまうと主張し(⇒資料3)、そのためにも改革を行なわなければ撤収しないと、あくまで内政改革を要求した。しかし閔氏政権と宗主国の清国政府が応じないため、同年7月日本兵が京福宮を占拠して閔氏政権を退けるとともに、大院君を担ぎだし政権をとらせた(甲午政変)。ついで日本海軍が朝鮮豊島沖で清国の軍艦と交戦し日清戦争が勃発した。明治天皇の宣戦の詔勅には、「日本が朝鮮に秕政の釐革(ひせいのりかく=悪政の改革)、治安の保持、自主独立を求めたのに対し、清国はこれを妨害し、自らの非望を遂げようとした」とある。一方清国の宣戦布告は「朝鮮は我が大清の藩属たること二百余年… 」と述べ、依然朝鮮が清の属国であることを主張した。日本軍は遼東半島を占領するなど優勢に戦いを進めた。その頃新政府によって日本が強力に指導した大改革が実施された(甲午改革)。それは広範囲に及ぶもので、両班や白丁(被差別民)などの身分制度の廃止、人身売買の禁止と奴婢(奴隷)法の廃止、宮廷にはびこっていた宦官(かんがん)の廃止、科挙の廃止と近代的官制の採用、物納から金納へと代わる税制の近代化、悪貨が良貨を駆逐して混乱を極めていた貨幣制度の改革と財政改革、巫女(シャーマン)が行なっていた呪詛による病気治療の禁止と近代医療衛生制度の導入など、中世的世界から決別する革命的な改革で、開国以後も朝鮮人自らの手では行なえなかったことばかりだった。しかし日本の軍事力を背景にした大胆な改革は、閔妃一派など守旧派から大きな反発を受けることになった。

1895年2月日本海軍は北洋艦隊を敗走させ、日清戦争は日本の勝利によって終わり、4月伊藤博文と李鴻章が出席して下関条約が結ばれた。その内容は、日本が遼東半島・台湾を獲得するとともに、第一条で清国が朝鮮を自主独立の国と認めると明記された。これによって清国への朝貢は廃され、千数百年に及んで朝鮮を従属国の位置に貶め、自主独立を阻んできた元凶の中華秩序は崩壊した。これは朝鮮の歴史で特筆大書すべき出来事であった。しかし、日本が朝鮮半島と遼東半島において優位を占めることは、南下政策を進めるロシアの容認できることではなかった。ロシアは、フランス、ドイツと組んで、日本が遼東半島を清国から奪ったことが、東洋の平和を乱すことになるといって、遼東半島を清国へ返還するように要求した。日本の10倍の国家予算と軍事力を持つロシアに、日本は対抗できる力を持っていなかったので三国干渉に屈した(5月)。閔妃をはじめとする守旧派は、日本がロシアを中心とする三ヵ国の要求に屈したのを見て、日本を侮るようになり、ロシアへ接近しその勢力を国内に自ら引き入れていった結果、開化派が退けられ日本の影響力が大きく後退した。これにより開明的な甲午改革は、中途で挫折してしまった。日本が自己犠牲まで払って清国と戦い、朝鮮を独立させたにもかかわらず、ロシアに事大しようとする政治姿勢に、日本人の対朝鮮不信感は著しく増大した。

ロシアの朝鮮進出に危機感を持った日本の三浦梧楼公使は、朝鮮のロシア接近の元凶は、宮廷を牛耳っている閔妃にあるとして、大院君と共謀して1895年10月、日本軍の守備隊と朝鮮軍の訓練隊、武装した日本人壮士を宮中に侵入させて、閔妃を殺害した(乙未事変)。日本はこの事件について列強諸国の非難を浴びたために、三浦以下関係者40数名を日本へ送還して裁判を行なわねばならなかった。広島で行なわれた裁判では証拠不十分で免訴となり、朝鮮で行なわれた裁判では、李周會ら朝鮮人3人が死刑となってこの件は決着した。

大院君が復権し、親露派を排除して開化派を中心とする親日内閣が組閣され、改革政策を復活させた。しかし閔妃事件で反日感情が高まっている状況下で、11月金弘集内閣によって発令された断髪令は、反日・反開化の動きを武装闘争へと導く契機となった。(⇒資料4)その頃の朝鮮人男性は、後頭部で髪を丸めたマゲを結っており、未婚男性は髪を腰まで伸ばしていた。「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは孝のはじめなり」という儒教の教えにしたがって、髪を切ることを罪悪視していたのである(そのくせ、○ん○んを切って宦官になるのは構わないというのが理解できない)。高宗国王は率先して髪を切り範を示したが、衛正斥邪を唱える儒者たちにとって断髪令は、小中華朝鮮の礼俗を捨て去り、夷狄(野蛮人)に堕するものと受けとられた。翌1896年1月、在地両班の指導下に農民を組織した義兵が蜂起し、「尊中華攘夷狄」を唱えて開化派政権の打倒を目指す反乱を起こした。蜂起は急速に拡大して開化派人士や日本人を殺害し地方都市を占領した。金弘集政権は鎮圧のため政府軍を派遣したが、政府軍が大挙出動している隙をついて、守旧派の親露派官僚がロシアと謀ってクーデターを起こした。国王高宗が王宮を捨ててロシア公使館へ突然移り住んだ(露館播遷・2月)。ロシアは事前に公使舘の整備を名目として歩兵部隊を派遣しており、日本は手出しができなかった。高宗は親日政権の首脳たちを逆賊として捕殺するよう命じた。ソウルで暴動が起こり、領議政(首相)であった金弘集と二人の閣僚が群衆によって惨殺され、親日政権は崩壊した。親露内閣が成立し、ロシア公使館が朝鮮の中心となった。高宗はその後も1年余りにわたってロシア公使館に滞在し、すべての政治はロシアの掌中にあった。日本人顧問や、日本人軍教官は全員が解任され、ロシア人顧問や、ロシア人軍教官と交替した。内政面では甲午改革に逆行する動きが進んだ。

高宗は1897年2月ロシア公使館を出て、国号を大韓帝国と改めるとともに、皇帝を称した(10月)。財政難の政府は列強諸国に巨額の借金を申し込むとともに、鉄道敷設権、鉱山採掘権、森林伐採権を露、米、英、仏、独に次々と切り売りしていった。それにもかかわらず国家財政は改善せず破産寸前に陥った。このように亡国への道をたどる不安定な朝鮮半島での日ロの軍事衝突を予防し、勢力均衡を目的とする交渉が行なわれた。1896年の山県・ロバノフ協定の交渉、2年後の駐韓公使スバイヤー提案、さらに1903年の小村・ローゼン会談において朝鮮半島を北緯38度線あるいは39度線を境に、それぞれを両国の勢力下に置くことが協議されたが実現には至らなかった。しかしその後、第二次大戦でアメリカとソ連が38度線を境に朝鮮半島を南北に分割占領して、それぞれの傀儡政権をたてた。(⇒資料5)

開化派は1896年7月独立協会を結成して義兵運動とは別の民族運動を展開し始めた。政府に対し国家の自主独立を求め、ロシア人軍事・財政顧問の罷免を要求して成功したほか、迎恩門を取り壊して西洋風の独立門を建てた。迎恩門は朝鮮国王が宗主国清の皇帝の使者を、屈辱的な三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとう=跪いて頭で地面を三度叩いて立ち上がる、この動作を三回繰り返す)をして出迎えた場所で、中華冊封体制の象徴的場所であった。大衆運動に進出したが、巻き返しを図った守旧派の弾圧を受けて、1898年12月皇帝の命により会は解散させられ、協会幹部も逮捕投獄されてしまった。

1898年3月ロシアは日本が三国干渉で返還した遼東半島の旅順を租借し、海軍基地を建設するとともに極東総督府を設置し、極東への軍事進出を加速させた。さらに1899年から日本の対馬と目と鼻の先にあって、天然の良港である鎮海湾の土地買収を進めた。ロシアの対日戦略意図は火を見るより明らかであり、ここに海軍基地を建設されては、日本ののど元に刃を突きつけられたも同然となるため、日本も競って鎮海湾周辺の土地買収を図り、これを阻止した。日本はロシアとの軍事衝突が近いことをを意識し始めた。ロシアは北清事変(義和団事件・1900年)を機に満州へ8万の大軍を送り、事変後も撤兵せず満州の独占支配と朝鮮進出の具体化に着手しはじめた。1902年2月、ロシアの南下政策によって中国・インド・中東で脅威にさらされていたイギリスと日英同盟を締結し、ロシアの進出を牽制した。ロシアは1903年7月、満韓国境となっている鴨緑江の韓国側の河口にある竜岩浦の租借権を獲得し兵営を建設した。8月、日露協商会議で日本はロシアに対し満州撤兵を要求するが、ロシアはこれを拒否して満州の占領を宣言し大兵力を送りこんだ。日本は世界最大の陸軍国ロシアと対峙する臨戦態勢になり、国内は緊迫した空気につつまれた。

1904年2月、日本軍が旅順港を攻撃することによって日露戦争が始まった。韓国政府は日露開戦を目前にして、局外中立を宣言したが、すでに漢城(ソウル)を制圧していたロシアはこれを無視し、関係各国も承認しなかった。日本が緒戦に勝利するや、韓国政府は態度を親露から親日に一変させ日韓議定書が結ばれた。これにより日露戦争遂行上必要な便宜と土地の提供を韓国に義務づけ、韓国政府は日本の承認なしに第三国との条約を締結できないことが定められた。さらに8月第一次日韓協約を締結して、韓国政府に日本の推薦する財政・外交顧問を置くことを認めさせ、いわゆる顧問政治の道を開いて内政改革を推し進めた。戦争中反日義兵はさまざまな妨害活動を行ったが、韓国内には日本軍に積極的に協力する勢力もあり、公称百万人の会員を擁する一進会が鉄道建設・軍需物資の運搬に協力した(⇒資料6)。日露戦争は1905年1月旅順陥落、3月奉天会戦で勝利すると、5月には日本の連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を壊滅させ、9月にポーツマス条約を締結して日本の勝利に終わった。条約によってロシアは、日本の韓国に対する「指導保護及監理」の権利を認めた。その2ヵ月前に日本はアメリカと桂・タフト協定を結び、アメリカは日本の韓国に対する宗主権を認めた。ついでイギリスも日本の韓国支配を認めた。これによって、日本の韓国に対する絶対的な優位が確立された。

11月、日本は伊藤博文前首相を特派大使としてソウルへ派遣し、第二次日韓協約(日韓保護条約・乙巳保護条約)を結んだ。日本が韓国の外交権を握ることと、韓国に統監府を置くことを定め、事実上の保護国とした。統監府は翌1996年2月に開設され、伊藤博文が初代の統監となった。この時点では日本政府は韓国を併合しようという合邦積極派と、韓国を保護国として半独立国のまま置こうという合邦消極派に分かれていた。合邦消極論者にとっては、当時韓国が破産状態で、欧米諸国に対して巨額の対外債務を負っていたのを、肩代わりするのを嫌ったのが理由となっていた。しかし高宗が日韓保護条約を無視して、アメリカ大統領やハーグの万国平和会議(1907年6月)(⇒資料7)へ密使を送って排日工作を続けたことと、反日ゲリラである義兵闘争が全国に広まって治安が悪化していったことが、韓国直接統治に踏み切らせる大きな理由となっていく。義兵の指導者は、追放された旧政府高官と封建的特権を剥奪された両班、西洋文明や日本に反感をいだく儒者たちで、衛正斥邪論に基づいて、日本勢力の駆逐と開化派政権の打倒を唱える韓国の近代化に背を向けた復古主義者たちだった。7月ハーグ密使事件の責任をとって高宗皇帝は譲位し、自国の改革をなおざりにして権謀術数を弄することに終始した最高責任者は政治の舞台から退場した。また第三次日韓協約が締結され、日本が司法権・官吏任免権を掌握して統監権限が強化された。

1909年10月満州ハルピン駅前において、伊藤博文が安重根によって暗殺されたことが日韓併合を早める結果になった。それまで伊藤は慎重論をとっていたのだ。(⇒資料8)日本人を激昂させた伊藤暗殺を機に、韓国内から日韓合邦を求める機運が高まってきた。韓国はもはや国家の体を成していなかったのだ。政治腐敗の巣になっていた宮廷、私利私欲に走る無能な官吏、農民を喰い物にする統治階級と愚昧な人民、儒教に毒された社会規範、これらの改革を目指した甲申政変、甲午改革、独立協会の活動などが、ことごとく守旧派に潰され、今なお攘夷復古主義者たちは、改革の停止と旧体制への復帰を主張して反日義兵闘争をやめなかった。そのため国力は、ますます衰えて民族の前途は絶望的となり、残された道は日本と合邦するしかなくなった。公称百万会員の韓国最大の政治団体一進会の李容九会長は、1909年12月「韓日合邦建議書」を韓国皇帝純宗に上奏し、同時に曾禰荒助統監、李完用首相にも提出して、韓日合邦を全国民に訴えた。そして1910年8月22日、親日派のリーダーである李完用総理大臣によって、「韓国併合ニ関スル条約」の調印が行なわれ、8月29日公布実施された。(⇒資料9)こうして韓国は日本に併合されたのである。

明治天皇の「韓国併合の詔」には、『東洋の平和を永遠に維持し、日本の安全を将来にわたって保障する必要から、常に禍乱(世の中の乱れ)の原因となっている韓国を、日本の保護下に置くことによって禍根を絶ち、平和を確保しようとした(日韓保護条約)。それから四年が過ぎ、日本は鋭意韓国の施政の改善に努め、その成績には見るべきものがあったが、治安の保持ができないため国民は安堵することが出来ないでいる。社会を安定させ民衆の福利を増進するためには、現在の体制を革新せざるを得ないことが明らかとなった。この事態に鑑み、時勢の要求に応ずることもやむをえないと考え、韓国を日本に併合することにした』旨が述べられています。


資料1 万国公法

他国の侵略あり征服ありの弱肉強食時代の国際法秩序が万国公法である。
「日本の歴史 16 明治維新」 中村哲 1992 集英社
「万国公法」の世界

日本の開国から明治維新の時期、1850〜70年代は、欧米勢力が中国・日本・朝鮮・ベトナムなどの東北アジアに本格的に進出し、この地域が近代世界市場に組み入れられ、欧米列強による力の支配がほぼ世界全体に及ぶ時期である。そして、欧米列強の支配する近代世界の秩序の法的表現が「万国公法」=近代国際法である。しかし、この19世紀近代国際法は、現代国際法とは大きく異なっていた。現代国際法は20世紀に入り、民族独立運動の発展とロシア革命の指導者レーニンやアメリカ大統領ウィルソンの提唱によって形成され、第二次世界大戦後に定着したものであり、民族自決を基本に据えている。

近代国際法はヨーロッパにおいて発達したものであり、ヨーロッパ文明を有する国だけが文明国とみなされ、国際法上の主体として認められるのは文明国だけであった。そして文明国、すなわち主権国家(当時の言い方では「自主の国」)は、開拓・征服・割譲によって新たに領土を獲得する権利を持ち、それを相互に承認し、確定するのである。それでは、「自主の国」=文明国でない国・地域や民族の国際法上の地位はどうなのか。近代国際法は世界の国・地域を三つに分類する。(1)「自主の国」=文明国、(2)「半主の国」=半未開国、(3)未開人(国)である。国際法上、(1)は完全な政治的承認がなされ、(2)は部分的な承認がなされ、(3)は「自然の、または単なる人間としての承認」がなされる(松井芳郎「近代日本と国際法」)。

(3)は、たとえそこに人が住んでおり、独自の国家が形成されていても、国際法上は「無主の地」とみなされ、征服の対象となり、「先占の法理」によって(1)の文明国の中の先占(先占取得)した国の領土となる。(2)の「半主の国」は「文明国」としての条件はもたないが、(3)よりもはるかに強力な国家機構をもち、またある程度国家発展を遂げた国であって、文明国は一応これらの国を承認し、一定の条約関係に入る。しかし、これらの国の国内法を承認するわけではなく、自国民を保護するために、領事裁判制度を中心とする不平等条約を結ぶのである。そして、この不平等条約を拒否する場合には、武力に訴えることは正当であり、また一度結ばれた不平等条約が守られない場合も同様である。19世紀後半の当時、(1)と認められたのはヨーロッパおよび南北アメリカ諸国、(2)と認められたのはトルコ、ペルシャ、シャム、中国、日本、朝鮮などであり、残りはすべて(3)とされて植民地支配のもとにおかれることになった。

ずいぶん欧米列強に都合のよい世界秩序だが、そういう時代だったのであり、この時代を生き延びるには、日本のように国力をつけて侵略を防ぎ近代文明国になることしか道はなかった。ローカルな中華冊封体制で国家の存続を維持してきた朝鮮は、より巨大な世界秩序に適切に対処することができず、列強角逐の場となっていく。
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資料2 華夷思想

日本の国書受け取り拒否の思想的背景
「韓国併合への道」 呉善花 平成12年 文春新書
日本の国書受け取りを拒否

1868年(明治元)12月19日、日本使節・対馬藩家老樋口鉄四郎らが朝鮮半島の釜山浦に入港した。明治新政府の樹立を通告するためである。しかし大院君政権下の李朝は、日本使節が持参した国書の受け取りを拒否した。その理由は第一に、文面に『皇上』『奉勅』の文字が使われていること、第二に、署名・印章ともにこれまでのものと異なっていること、であった。いずれも、両国間で取り交わされてきた文章の慣例を無視した規格外のものであって、受け取ることはできない、というのが李朝側の回答である。李朝からすれば「皇」は中国皇帝にのみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味した。朝鮮王は中国皇帝の臣下ではあるが、日本王の臣下ではない、このように傲慢かつ無礼な文書を受け取ることはできない、というのが李朝側の考えだった。

日本の新政府は、それ以後もたびたび使節を送って釜山での交渉を一年余り続けたが、李朝は一貫して、文書の表現・形式がこれまでの慣例とは異なることを理由に、日本国書の受け取りを拒否し続けた。頑迷な李朝の儒者たちは、かつての倭夷が洋化し「仮洋夷」となって襲来したとして、日本も衛正斥邪の対象であると、ますます排斥の声を大きくし、一切の交渉を拒否した。あくまで旧慣の保守を譲ろうとしなかったのである。こうした情勢を受けて、日本政府内に「征韓論」が起こるのである。征韓論とは言っても、朝鮮侵略それ自体が目的ではなく、真の狙いが中華主義に基づいた華夷秩序の破壊にあったことは明らかだろう。

『自らが世界の中心にあり、その中心から同心円状に遠ざかれぱ遠ざかるほど、野蛮で侵略的な者たちが跋扈する文化程度の低い夷族の地がある。こうした野蛮な世界に秩序を生み出すには、世界の中心、すなわち文化の中心にある「優等なる中華」が、周辺の「劣等なる夷族」に文化・道徳を与えて感化・訓育し、中華世界の支配下へ組み入れていかなくてはならない』これが中華主義である。この世界観に基づいて、中華帝国を尊崇し朝貢などの礼式をもって臣下の意を表す周辺の夷族たちは藩属国とみなされ、それらについては中華帝国は大いに酬いて文化・道徳を与え、ときには軍事・経済などの援助も与える… こうして成立する世界秩序を華夷秩序という。建国以来、中華帝国に臣従する一藩属国だった李朝は、依然としてこうした古代的な世界秩序の内部での眠りから覚めようとはしなかったのである。こうした李朝にとって日本は、中華帝国への礼をつくさない周辺の野蛮なる夷族に過ぎなかった。

明治初期の征韓論は幕末のそれのように、単に『古代神功皇后以来の支配権の復活』を高唱するだけの空疎なものではなかった。すでに日本は、欧米列強に対抗するためには、国家社会の近代化と富国強兵を早急に進める以外にない、との自覚をもっていた。そのときから日本にとって、あくまで華夷秩序を頑迷に守ろうとする隣国の李朝は、日本の安全を根本から揺るがしかねない存在となってしまったのである。李朝もまた、日本のように早急に開国しで近代化と富国強兵を推し進めなくては、またたくまに西欧列強の支配下におかれることになってしまうだろう。そうなれば隣国日本は窮地に立たされることになる。そのためには、武力をもってしても強引に李朝を開国させるべきだ、という考えが出て来たのである。それが明治初期の征韓論なのであって、前近代までの征韓論とは、まったくレベルの異なるものであることが強調されなくてはならない。当時の日本にとって華夷秩序の破壊は、皇国史観やウルトラ・ナショナリズムとは別次元で、近代国家が当面する現実的な緊急課題だった。李朝が華夷秩序の従属下にある限り、日本が望むような近代化による国力増強は困難だと考えられたからである。そこで、李朝の華夷秩序からの離脱、つまり朝鮮独立が、近代日本の外交上最重要事項として浮上することになったのである。

朝鮮は、「皇・勅」などの文字使用が不敬であるとして国書の受け取りさえ拒んだが、朝鮮の宗主国清は日本との間で、1871年に対等の条約(日清修好条規)を締結しており、「皇」などの文字はたいした問題にはならなかった。

朝鮮が儒教朱子学に基づく華夷秩序を受け入れたのは自らの安全保障のためでもあった。国王の任命権(冊封)が中国皇帝にあることは、国家簒奪をたくらむ反乱者に対する強力な抑止力になり、李氏朝鮮は500年も続いた。そのため朱子学の優等生である朝鮮の支配階級は、中国に対し忠実無比となり卑屈なまでに隷属してきた。その鬱屈した心理のバランスを保つために、周辺の諸民族を蔑視し自分より一段低いものと侮蔑した。朝鮮人は日本差別主義者だったのだ。それは科学的には何の根拠もない手前勝手な集団妄想であり、儒教朱子学の弊害として、朝鮮の近代化を阻んだ最大の原因ともなった。
「「日帝」だけでは歴史は語れない」 呉善花 1997年 三交社
日本人を倭人と呼んで蔑視した朝鮮通信使

1719年(享保4)、日本を訪れた第8回朝鮮通信使一行の製述官(文人官僚)申維翰は、同行した日本側の接待役、対馬藩士雨森芳洲が、自分に向かって次のように言ったと記している。『日本と貴国は、海を隔てて隣国であり、信義相変らず。…しかし、ひそかに貴国人の撰する文集を見るに、その中で言葉が敝邦(日本)に及ぶところは必ず、倭賊、蛮酋と称し、醜蔑狼籍、言うに忍びないものがある。…こんにち諸公たちは、この意を知るや否や』『今でさえ諸従者(通信使一行の者たち)は、敵邦(日本)の人を呼んで必ず倭人という。また望むところにあらず』(申維翰『海游録』姜在彦訳/東洋文庫・平凡社)これに対して申維翰は、『それは壬辰の乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)以降に書かれた文章だろう』と言い、『秀吉は我が国の通天の仇であり、我が国の臣民ならば、その肉を切り刻んで食おうと思わない者はいない』と応じている。申維翰の主張は、『豊臣秀吉が韓国を侵略したから日本人を蔑称してよい』というものだ。実に情けない屁理屈を述べたものだが、しかも「壬辰の乱以降」というのはまったくのウソなのである。

韓半島に成立した諸国では、日本に対する正式な国書を別として、古代以来一貫して日本のことを蔑んで、「倭」あるいは「倭国」と書き習わし、「倭賊」とか「蛮夷」とか、さらに侮蔑的な表現を用いることが一般的に行なわれていた。その点では李朝も同じことだったのである。この雨森芳洲と申維翰のやりとりは、ほとんど現代にも通じるものだ。いまでも、韓国人どうしで日本人の悪口を言うときには、「日本奴(イルボンノム)」「倭奴(ウェノム)」「猪足(チョッパリ)」(日本人の足袋(たび)が豚の足のようであることから)などの蔑称を用いることは珍しくない。また、日本人との間に労使紛争や政治的軋轢などが生じると、日の丸を焼いたり侮蔑的な言葉を投げつけては抗議をする。日本人が「このような侮辱を受けるいわれはない」と言えば、韓国人は「日本人はかつて韓国を侵略し我々を苦しめたではないか」と応じる。申維翰の昔から同じパターンなのである。

朝鮮女性の日本人との性交渉を国禁とした李朝

李朝は日本の明治維新後に、朝鮮女性が日本人と性的交渉をもつことを国禁としている。もしその禁を破れば、本人は斬首刑に処せられ、所轄の地方官吏たちも責任を問われて罷免された。それは主として、釜山・草梁の倭館の日本人居留民たちを対象としてのものだった。日朝修好条規が結ばれた翌年の1877年(明治10)ころの李朝では、うち続いた凶作のために餓死者が出る状況のなか、貧農の女たちが夜になると、ひそかに釜山・草梁の倭館を訪れていた。食料を乞うため、日本人居留民を相手に春をひさいだのである。それに応じた日本人の多くは船員や商人たちだったが、その結果、数多くの女たちが逮捕され刑に処された。当時の日本の新聞がその様子を次のように伝えている。

『東莱、釜山、水営の三役所から各長官が出張して刑の執行を宣言する。女たちは荒縄で縛り上げられ、小さな白羽の矢で耳の穴が刺し貫かれている。そして木枕に頭を乗せて仰向けに寝かせられ、喉元に鉈(なた)のような刃物が当てられる。その上から槌を打ち下ろして首を切り落とすのである。一人の女は刑場へ引き出されると、静かに周囲を見渡し、「もはや餓死するしかなかった命を日本人のために四、五十日長らえることができました、今日からやっと、これまでの飢餓の苦しみから免れることができます」と言って涙を流したという』 (郵便報知新聞明治10年10月2日より要約)

なぜ朝鮮女性が日本人と性的交渉をもつことが、斬首刑をもって酬いなくてはならないほどの大罪となるのか。それは日本人が侮蔑すべき倭賊であり、蛮夷だからである。そのような夷族によって我が臣民女性が汚されてはならない−−それがこの国禁の真意なのである。かつて問題となった「日本人売春ツアー(キーセン観光)」についても、現在の「従軍慰安婦」についても、その反感の質に「夷賊(日本人)による民族陵辱」という精神の次元が無意識に関与していることを否定できない。

「韓国の「民族」と「反日」」 田中明 1988年 朝日文庫
第二回通信使(1764年)に随行した金仁謙は「日東壮遊歌」という日本紀行文を著わしているが、そこには日本を表わすのに、「倭ノム」(ノムは「奴」といった意味)という言葉がしばしば出てくる。さらには、倭と音が通ずるので「穢ノム」という言葉までが使われている。

  館舎は本国寺、五層の楼門には
  十余の銅柱、天に達するばかりなり
  水石も奇絶、竹林も趣あり
  倭皇の住む所とて、奢移をば極め
  帝王よ、皇帝よと称して、子孫に伝う
  犬の糞が如き臭類はことごとく追い払いて
  四千里六十州を、朝鮮の地となし
  王化に浴せしめて、礼儀の国に作りたし。

筆者の自尊意識は甚だ強い。日本関白(将軍のこと)に国書を奉ずる儀式に出ると、前後四回、四拝せねばならぬと聞き、「堂々たる千乗国の、礼冠礼服着けたる身、頭を剃りたる醜類に、四拝なんどは以ての外」と、参席を拒み通している。したがって、その日本観察は蔑視と自尊のサイクルのなかに閉じこめられて終る。『海游録』の著者、申維翰もそうだが、日本の都市や建築物の壮大さとか商業の盛んな様子は詳しく述べつつも、なぜそうなったかには関心が向わず、日本の風俗の淫靡なことや学の未熟さなどに目が転じてしまうのが特徴である。「日本は儒学は輸入したが儒教は入れなかった」という言葉がある一方、朝鮮はそれと反対に、習俗すべてを儒礼にそうよう言動を磨き上げることに努めた。したがって、家庭の秩序、男女の関係、衣冠制度など、儒家的な基準に合わぬことをする日本人は、朝鮮の知識人の目には全くの野蛮人に見えたのであった。

以上のような風潮はそのまま進展する。だが、18世紀末から中国を経由してキリスト教が入ってきたり、さらには黒船の来航という事態が生じてくると、それまでのように悠然と夷を見下してばかりはおれなくなる。西洋という得体の知れぬ新しい要素は、従来の華夷的世界観のワクをはみ出す不気味な撹乱要素であった。たとえぱ彼らが持ち来たったキリスト教は、神の前における万人の平等を説く。それは華夷弁別・貴賎上下の序階的秩序を重んじる儒教の立場からすれば、人倫を蔑するものとしか映らなかった。したがって西洋は、清や日本のような夷狄ですらない。西洋人に対して朝鮮知識人が下した規定語は「禽獣」であった。(以下の引用文は日本との修交に反対した儒者の上疏文から)『丁卯・丙子の事件(1627・36年)は華夷の差の問題でありますが、今日の事件(開国)は人獣の違いの問題であります。華が夷になることは、それでもありえましょうが、人類が禽獣になることなど口にするのも忌まわしいことであります(金平黙)』当然キリスト教への弾圧は激しく、相次ぐ弾圧で多くの信者が処刑された。
(中略)
彼らにとって日本は洋化した倭であった。儒者崔益鉉は言っている。『倭人の様子は昔と今とでは非常に違っております。このことは明察しなければなりません。昔の倭は隣国でありますが、今の倭は寇賊であります。隣国とは和することができますが、寇賊とは和することはできません。倭が寇賊であることがなぜわかるかといえば、彼らが洋賊の先導をしているからであります。(中略)いま来ている倭人は洋服を着、洋砲を用い、洋船に乗っており、これらはすべて倭洋一体の明証であります』

日本との間には、すでに明治元年(1868)以来の書契問題があった。維新を完遂した日本政府は、王政復古を伝えるとともに、外交の再開を希望する旨の書契を朝鮮に送った。しかし、その中に「皇」「勅」の文字があったり、使用印が変えられたことなどから、朝鮮側は旧格に違うといって受理を拒んだ。朝鮮にとって、「皇」とは中国皇帝であり、「勅」とは中国皇帝の詔勅であって、これらの文字を日本が用いることは、とうてい認めることができなかったし、日本側に朝鮮を臣隷とする野望があるのではないかという疑いをも抱かせた。いずれにせよ朝鮮にとって新しい日本が、従来の東アジアの国際秩序を乱す方向で臨んできたことは、倭洋一体観を朝鮮人の頭に強く植えつけることになった。

こうした経過をたどって、夷狄から禽獣に格下げされた日本が、現実には後発帝国主義国として韓国を植民地支配するようになった。(中略)朱子学の名分論で武装した人びとの絶叫も、現実の武力の前では有効な抵抗力にはなりえなかった。しかし、違った意味で、それは最強の勢力であった。朝鮮が亡国に進む過程て、帝国主義勢力に対する不惜身命の抵抗戦を挑んだほとんど唯一の勢力が、衛正斥邪派といわれるこれらの人たちであった(東学という民間信仰の信者による抵抗を除けば)。そのために彼らは、今日の韓国人の心に抵抗者の原像として深く刻みこまれることになった。そのように生き残ったという意味で、それは最強の遺産なのである。もちろん、現代韓国人に儒教の華夷思想がそのまま受け継がれているわけではないが、日本への抵抗というとき、衛正斥邪派のとった行動様式は、最もなぞりやすい身近な手本になっている。したがって、先達の抱いていた抵抗の支えとしての文化的優越意識もまた、最もなぞりやすい抵抗の表現となっているのである。

韓国人が、日韓関係を考えようとするとき、かつての文化的優越の記憶が、交響曲の第二テーマのように胸中をよぎる… ということは今日も同様である。81年秋、韓日議員連盟の副幹事長孫世一氏(野党)が日本に持ち来たった日韓文化交流のための方案書(日本文)にはつぎのように記されている。『今日の国際秩序の基本単位である近代国家体制を整える過程においては、韓国が東洋国際秩序において下位にあった日本の植民地になることにより、帝国主義時代の国際秩序においても至極例外的な関係をもってきた点に、問題の深刻性があります』(原文のまま)。それは長く刻みこまれてきただけに、韓国人にとってあまりにも「深刻」な間題として今日も生きつづけているのである。

「韓国人の経済学」 室谷克実 昭和62年 ダイヤモンド社
メガネに関しては、こんな史実が伝えられる。日本の朝鮮統治時代、ある独立運動家が日本の官憲から出頭を求められた。彼は日本の官憲を最大限に侮辱しようと思い、ダテのメガネをかけて出頭した。しかし、日本の官憲がメガネに頓着するはずもなかった。それで彼は拍子抜けしたというのなら、この話は日本人にもわかりやすい。しかし、この話のオチは違う。『日本の官憲はカだけは強いが、礼節を知らね島国の野蛮人だ。侮辱されていることにも気づかない』と、彼は溜飲を下げたというのである。人前ではメガネも無礼という独特の礼節をもつ民族が、メガネをかけて異民族の前に進み出ることで、「やはり礼節を知らぬ野蛮人だ」と優越感にひたれる。これは、当時の朝鮮民族が自分たちの儒教価値だけを絶対至高と信じて疑うことのない小世界にいたことを物語る。

(戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事から 『眼鏡を掛けたまゝ挨拶したのが因で/鮮人が同郷人を袋叩き/今度は亦自分が殴らる(伏見町尼ヶ崎、朝鮮人同士の喧嘩に別の男が介入)』 京都日出新聞 1921/8/20 夕 京都伏見区 )

現代韓国人は、「日本は韓国を侵略したから」という理由で、日本人に対する侮蔑的な言葉や行為を正当化しており、その根拠を日帝の植民地支配や豊臣秀吉の朝鮮侵略に求めているが、日本蔑視の華夷思想はそれらより遥か昔に遡るのであり、もともと日本を差別し格下に扱ってきたのである。ここが分からないと、なぜ天皇を一段降格させて日王と表記するのか、なにゆえワールドカップ・サッカーの表記が、日韓でなく韓日でなければならないと固執したのかが分からない。また、経済・文化・スポーツなどの国際舞台で、日本の地位を引き摺り落とそうとしているとしか見えない行動も不快である。現代韓国人の深層心理には、儒教朱子学による華夷思想・日本蔑視感情・序列意識が生き続けているのだろう。
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資料3 続発した民衆反乱

李氏朝鮮の時代は悪政のため民衆の反乱が続発した。反乱者の要求したものは一貫して、奴婢の開放と身分制度の改善、横暴な両班の処罰、税制・土地制度の改善であったが、李朝の対策は小手先なもので、根本的な改革を行うことはなかった。
「図説 韓国の歴史」 1988 金両基 河出書房新社
朝鮮朝後期の下層民衆の最初の大きな抵抗は、仁祖元年(1623)の「李○(イファル)の乱」であろう。漢城(ソウル)が一時陥落したほどのこの乱は、奴婢層が呼応し、それが主流となったものと考えられる。壬辰倭乱以後、階級間の矛盾が急激に深化し、賎民(奴婢)は自衛のために秘密結社をつくった。仁祖年間(1623-49)、南原を中心に全羅南道地方に急速に広がった殺人契(サリンゲ・契は利害を共有するものの集団)の動きはその代表的なものである。両班層は彼らからの報復攻撃に備えるため、東莱(釜山)から日本の銃を輸入して自己防御につとめ、殺人契員の報復を恐れて、両班が殺害された場合にも官に告発することさえもできなかった。

また1629年、西北地方(平安道・黄海道)の平民流浪民と賎民流浪民が中心となった明火賎(ミョンファチョン)集団は、漢城を攻略した。彼らは両班のいない平等な社会を実現しようと14ヵ条の社会改革案を作成し、奴婢の良人化や権勢家の農場没収などを求めた。17世紀中葉にも下層平民や賎民の抵抗は激化した。1646年に起きた忠清・全羅道の民乱である林慶業の乱がそれである。林慶業将軍が募軍起兵するとの旗幟のもとに私奴と平民1000余人が集まった。
(中略)
下層民衆の抵抗は、17世紀末葉にも引き続いた。1684年、賎民層の秘密結社である香徒契(ヒャンドゲ)が中心となった殺主契(サルジュゲ)・剣契(コムゲ)の動きがその例である。彼らの綱領は、(1)両班を殺戮すること、(2)両班の婦女子を劫奪すること、(3)両班の財産を奪取すること、であった。これらの組織は、漢城内の家奴が中心となった17世紀初めの湖南地方の殺人契とも相通じるものがある。このような下層民衆の抵抗は、彼らの平等社会への渇望を表現するもので、当時「真人(救世主)が出現」するという信仰が平民・賎民の間で高潮した社会的雰囲気があったのである。

17世紀末葉の1688年にも、京畿道、黄海道、江原道一円の信者たちを背景に、京畿道楊州で弥勒(みろく)信仰者らが漢城に侵攻しようした事件があった。彼らは『釈迦の時代は終わって弥勒の時代が到来し、世間にもやはり別の時代がくる』との信仰をもって動いた。この事件は指導部の消極的な態度によって失敗したが、翌年の政権変動をもたらした。(中略)1728年いわゆる戌申乱が爆発する。この乱では忠清道清州が陥落し、京畿道安城と竹山が反乱軍によって占領され、慶尚道では居昌、咸陽などが陥落した。この乱の主導層は両班たちであったが、全羅道地方の9000名の奴婢盗賊勢力と嶺南の2万余名の土賊勢力も参加することになっていた。しかし、この乱が英祖代(1725-76)に与えた影響は実に甚大なものであった。「門族登科記」には『戌申逆乱後には、大家、名族、達官を問わず殺戮・籍没し、連累者が国中に遍満した。
(中略)
従来の社会的矛盾がいっそう深化し、1811-12年には西北地方での農民戦争である「洪景来の乱」が蜂起している。4ヶ月余りにわたったこの乱では、清川江以北の諸地方がすべて陥落し、義州までも陥落寸前に至った。このときには漢城内でも中人層(技術職に従事した管理・商人)が中心となって漢城内の両班たちを火攻めによって抹殺した。西北地方の「洪景来の乱」は、同地の郷村の中間層が乱の主導層であり、漢城内の乱の主な謀議者は中人であった。これでみると19世紀の朝鮮社会は、郷村の中間層と都市の中人層が歴史の前面に浮上した時期であるとみなすことができるだろう。
(中略)
社会的矛盾がいっそう深化するにともない、今度は全国的な規模の農民反乱が慶尚道、全羅道、忠清道、京畿道、咸鏡道など広範囲な地域で発生した。1862年の「壬戌民乱」がそれである。その発端は普州での民乱である。晋州民乱当時この地域の農民の農地所有関係を見ると、両班層や平民・賎民層の大部分が極端な零細農民であった。生計の維持すら不可能な貧農層が両班層では55.0%、平民・賎民階層では72.5%にもなっていた。かれらが農業生産を通して富を蓄積しようとすれば地主の小作地を借用せずにはいられなかった。いわゆる三政紊乱(田税・軍役・還穀の乱れ)により生計に脅威を受けるのとは別に、すでにかれらはその農地所有において緊迫した状態に達していたことが知られるのである。(中略)乱の初期には封建官僚に対する攻撃が主であったが、乱が進行するにつれて地主層が攻撃の対象となっていった事実も、前に指摘した当時の土地所有関係において説明されうるだろう。
(中略)
1860年代には民族宗教である東学教が開創された。「人及天」をその趣旨とする同教は、儒・仏・仙、三教の合一によってなるものだという。朝鮮朝時代の全期間、儒学が朝鮮王朝の支配理念であったが、仏教も神仙思想も民間では粘り強く受け継がれていた。仏教は民衆仏教である弥勒信仰が民衆の支柱としての役割を果たしていた。またキリスト教も当時はかなり急速に広がっていたが、それは民衆仏教である弥勒信仰の強い伝統の土台の上での現象であった。弥勒信仰はキリスト教の千年王国信仰と思想内容が類似していたがゆえに、弥勒をメシア(救世主)に代えればその信仰は容易に受け入れられた。東学教は、外来宗教であるキリスト教に代わって、燎原の火のように全朝鮮に広がることになった。壬戌民乱当時の地域性・孤立性をこの東学の組織が克服し、1894年の全国的な農民蜂起(東学党の乱・甲午農民戦争)を可能なものとしたのである。

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資料4 断髪令騒動

断髪令は李氏朝鮮が法制化し民衆に強行したものだが、どういうわけか日本批判の材料となっている。彼の国では自己批判をすることはなく、何事にも悪いのは日本なのである。
「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社
(灰色文字は管理人注)
断髪令騒動も又朝鮮史に重要な位置を占めてゐる一節であるが、事は金宏集内閣の兪吉濬(ゆ・きっしゅん)内相が、生活改善運動の一つとして断髪をとりあげ、国王率先断髪を断行、勅語を発して之を法制化し、民衆に強行しようとしたことから初まるのだ。このとき春川の儒生団が一斉に起つて、断髪令こそは、倭夷の蛮法なり、逆党の訓令なりと叫び、さらに背後にあつて閔派の政客之を煽動したものだから、春川、原州、安東、驪州等、今次の南北戦争(朝鮮戦争)の戦場になつた各地に次々と暴動が起り、官衙(役所)及び日本人に危害を加へて行つたのである。髪を切ることが倭夷の蛮法なりと、日本人に責任を負はせてゐる点と、渙発の勅語が又面白い。
「朕臣民に率先して髪を断つ、爾有衆克く朕の意を体し、万国と並立する大業を成せよ」
と言ふのであるが、長い民族風習から離れる生活文化の問題だけに、勅語を発して大事をとつたのはよかつたが、これを励行するため、末端の行政庁では、各戸を訪問して強制実行せしめたり、甚だしいのは巡査が剃刀(かみそり)を持つて、街路に立ち通行人のチョン髷を次々と剃つて行つたのだ。この警察権濫用の弊害は、日本時代にまでずつと残つてゐて、白服常用は洗濯の労力と、生地の損傷(朝鮮では洗濯棒で叩いて洗う)で不経済だから、色服に変更しようではないかと、所謂(いわゆる)色服の奨励を総督の政策の一つにとりあげたときなども、通行の白服人に墨汁を振りかけたり、一人一人捕らへて衆人の前で恥をかかせたりして無意味な反感をそそるその不手際さをよく見た著者は、在鮮時代郡守道庁員等直接民衆に接触する役人をよく戒告したものだが、その末端行政の面に於ていつも断髪令当時のやうなことが行はれるのであつた。そしてかうした小事をとりあげて、政治的に利用し、大衆運動に発展させることの巧みさも又民族の特性と言ふことが出来よう。さて断髪令は一応全国的暴動にならず、鎮圧された…

李氏朝鮮時代は役人が権力をかさに常民をイジメていたが、日本統治時代になっても朝鮮人役人の性向はなかなか改まらず、相変わらず庶民に対し横柄な態度をとりつづけた。そのことが日本統治時代の悪いイメージとして残ったのであろう。
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資料5 北緯38度線

朝鮮半島南北分断は日本のせいであると批判されるが、アメリカとソ連の交渉で決定したのであり、ソ連にとって38度線は日露戦争時代の権益にまで遡るものだった。
「朝鮮戦争の起源 第1巻」 ブルース・カミングス 鄭敬謨・林哲訳 1989年 シアレヒム社
朝鮮の分断、1945年8月

太平洋における戦況からすれば、1945年の夏の時点では、アメリカが朝鮮問題に積極的に介入しうる可能性はそう大きくはなかった。日本本土(九州)に対する米軍の上陸作戦は大体11月1日を期して始まる予定になっており、朝鮮に注意を向けるのは本土が平定された後だというのが軍部の構想であったからである。1945年7月ポツダム会談のとき、軍事状況が無視できなくなった情勢の中で、もし朝鮮に対する侵攻作戦がとられるならその責任は全面的にソ連軍に任せるというのが事実上の考え方であった。(中略)機密文献の中の一つは『アジア大陸における掃蕩作戦に関して言うならば、満州(もし必要があれば朝鮮)におけるジャップの一掃はこれをロシア人に任せるというのを目標とすべきである』とも述べている。括弧の中に言及されたような朝鮮における軍事行動については、7月24日に開かれた三国(米英ソ)軍事会談においてより明確に話し合われた。
(中略)
アメリカは8月6日と9日、広島と長崎に続けて原爆を投下したが、ソ連は間髪を入れず、アメリカの予測していなかった軍事行動をアジア大陸で開始し… そして日本は崩壊した。このような目まぐるしい事態の中で朝鮮に38度線が引かれ、南北二つの分割地区が米ソ両国軍の占領下におかれることになる。北緯38度線に線を引くというそもそもの決定は全くアメリカの下したものであって、この決定が下されたのは8月10日の夜から翌11日の未明まで続いた国務・陸軍・海軍の三省調整委員会(スウィンク SWNCC)の徹夜会議の時であった。この会議の模様については幾つかの報告がなされているが、その中の一つを紹介すれば次の通りである。
……国務省の要望は出来うる限り北方に分断線を設定することであったが、陸軍省と海軍省は、アメリカが一兵をだに朝鮮に上陸させうる前にソ連軍はその全土を席巻することができることを知っていただけに、より慎重だった。ポンスティールとラスクはソウルの北方を走る道(県)の境界線をもって分断線とすることを考えた。そうすれば分断による政治的な悪影響を最小限にとどめ、しかも首都ソウルをアメリカの占領地域内に含めることができるからである。その時手もとにあった地図は壁掛けの小さな極東地図だけであり、時間的な余裕がなかった。ポンスティールは北緯38度線がソウルの北方を通るばかりでなく、朝鮮をほぼ同じ広さの二つの部分に分かつことに気づいた。彼はこれだと思い、38度線を分断線として提案した。
(中略)
ラスクの言によると、38度線は『もしかしたらソ連がこれを承諾しないかも知れないということを勘案した場合……アメリカ軍が現実的に到達しうる限界をはるかに超えた北よりの線』であったのであり、後からソ連がこの分断線の提案を承諾したと聞いた時、彼は『若干驚きを感じた』ということである。
(中略)
ソ連軍が朝鮮に侵入したのはアメリカ軍が上陸する一ヶ月も前のことであり、もし彼らがそう欲したとすれば、ソ連軍は簡単に朝鮮半島の全土を入手する立場にあった。しかし彼らはアメリカに与えた同意事項を遵守した。そのためにアメリカ軍は遅れてきたにも拘らず、首都ソウルと人口の3分の2、それに軽工業の大部分と穀倉のほとんどを含む地帯をその占領下に収めることができた。
(中略)
スターリンがアメリカとの合意事項を遵守したのは、それなりの理由があったと思われる。38度線の目的は、お互いの勢力範囲を厳格に規定することにあると、彼は考えたに違いない。歴史をさかのぼってみれば、ロシア人と日本人は1896年(日清戦争終結の翌年)、38度線を境界線として朝鮮を分断する交渉を進めたことがあり、同じような交渉は再度、1903年(日露戦争の前年)にも行われた。スターリンは1945年、日露戦争で失われたロシアの権益は回復されなくてはならないと、はっきり言明している。(中略)朝鮮におけるソ連軍の動きにスターリンが制約を加えたのは、連合軍との協調関係を維持したいという考えからであったのかも知れない。ともかく理由は何であれ、スターリンにとって朝鮮は完全に自らが軍事的に支配しうる国であったにも拘らず、彼はアメリカに対し共同行動を許容したのであった。

(大東亜戦争の終戦直前である1945年5月30日に日本軍は対アメリカ作戦強化のため、38度線を境にして北は関東軍、南は大本営直接指揮下の戦区と決めたが、戦後の南北分断とは無関係であった。)
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資料6 一進会の対日協力

歴史教科書などで抗日ゲリラの義兵闘争ばかりが強調されているが、日本の敗色濃厚と見られていた日露戦争で、自国の復興を賭けて対日協力した一進会の活動は、それに劣らず活発なものだった。つまり国論は二分していたのである。
「大東亜戦争への道」 中村粲 平成二年 展転社
一進会が結成されたのは、日露戦争たけなわの明治38年秋(1904年)であった。一進会会長には元東学党幹部だった李容九が推され、会員数は100万と称された。李容九は日露戦争を、ロシアに代表される西欧侵略勢力との決戦とみなし、日韓軍事同盟でロシアの侵略を阻止してアジアを復興することこそ、朝鮮の運命を開く道と考へたのである。一般には排日空気の濃厚な当時の朝鮮で、このやうに対日協力を声明し実践することは多大の困難を伴ふものであったが、一進会は敢へて親日へ踏み切ったのであった。

その頃、朝鮮鉄道は釜山から京城までで、我が軍が満州へ兵を送るのに必要な京城から新義州までの鉄道はまだ敷設されてゐなかった。韓国政府が非協力的であったため、我が軍は甚だ困窮したのであったが、この時、一進会が鉄道敷設に起ち上がったのである。また武器弾薬を北方へ輸送するため、一進会は北進隊を組織して日本軍に協力した。これらがいづれも、多大の困難と犠牲を伴ふ事業であったことは云ふ迄もない。

因みに、京義鉄道敷設工事に参加した一進会員は、黄海道、平安南道、平安北道を合わせて15万人に上った。また北鮮から満州へ軍需品をチゲ(荷物を背負ふ道具)で運搬するのに動員された会員は11万5000人で、この鉄道敷設隊と輸送隊を合わせると、100万会員のうち26、7万人が動員されたことになる。そして鉄道工事の費用は領収雇金2万6410円、会員自費金額12万2704円といふ数字が残つてをり、大部分が会員の自弁であったことを窺はせる。戦争の危機、事故や病気、多大の出費、加へて反日的朝鮮官民による迫害など、さまざまの艱難辛苦を冒して日本軍に協力した一進会の捨身の行動は、自国と東亜の復興をこの一戦に賭ける深い信念と憂情あつてこそ、はじめて可能だったのである(大東国男「李容九の生涯」)。 (大東国男は李容九の子息)

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資料7 ハーグ密使事件と皇帝の退位

高宗を知れば李氏朝鮮が滅びくして滅んだことがおぼろげながら理解できる。高宗の側近であった洪鐘宇の談 『こんな国王を戴きながら、韓国が滅びないのは僥倖(幸運)だ』 『韓国も今や末路である。亡びざる国はなく、四千年の旧邦も今は断末魔に近づいている』(青柳綱太郎著「李朝史大全」より)
「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助 平成14年 名成社
高宗皇帝の面従腹背

李氏朝鮮の第二十五代哲宗には子供がなく、遠戚に当る李載晃(1852〜1919、後の高宗)が国王に即位した時は、僅か十二歳でした。そのため実父の李○応(大院君)が執政となりました。大院君は強烈な個性の持主で、それに実父であり、高宗はとても頭があがりません。実父の執政は十年間続き、その後は怜悧な才女であった皇后の閔妃によって国政は牛耳られ、国王は飾り物のような有在でした。明治二十八年(1895)、閔妃が暗殺されると、皇帝はわが身の危険を感じてロシア公使館に逃げ込んでしまいました。この事件を「俄館播遷(がかんはせん)」と呼びますが、ほぼ一年間外国の公使館から政務をとるという異常事態が続きました。この異常事態も永くは続きません。国内には民族独立運動が起り、国王も宮廷に帰還しました。そして大韓帝国・皇帝として親政するようになったのです。時に三十三歳。この新帝国は皇帝による直接政治であって国会はなく、閣僚は皇帝の任命制で、いわば専制政治でした。専制政治も、名君に指導されるものなら効果的ですが、高宗のように性格は善良でも、指導力乏しく、宮廷内の取り巻きに振り回されるようでは混迷は深まるばかりです。自分で決めたことでも、不利になればすぐ部下がやったことと逃げる有様で、次第に内外から信頼を失ってゆきました。彼は日本の信頼をどんなに失っていったか。田端元氏が「好太王から朝鮮滅亡後まで(九)(小日本社)の中で、多くの実例を紹介しておられます。その中から二、三紹介してみましょう。

日露戦争の開戦に当って、「日韓議定書」が締結されました。この議定書は、戦争に当って日本の邪魔をしないことを約束したもので、第五条は「本協約の趣旨に違反すべき協約を第三国との間に締結することを得ざる事」となっておりました。にも拘らず高宗は、ロシアに密書を送っております。日本が敗れた場合の保障をとりつけようとしたのでしょうか。その他日本軍の電話を切断したり、鉄道爆破の事件を起したりした背後に、皇帝の意志が働いたとされています。世界のどの軍隊もそうですが、日本軍も戦争遂行のために、これらのゲリラを発見したら厳重に処断しました。韓国・天安市に建てられた「民族独立記念館」に行けば、日本軍によって公開で銃殺されている韓国人たちの写真が大きく掲示されています。この写真だけ見れば、日本軍はヒドイと印象づけられますが、「戦時国際法」によれば、ゲリラの処刑は当然のことだったのです。当時(日露戦争中)日本の沖・横川両軍事探偵は、鉄道爆破が露見して、ハルピンで銃殺されています。

更に高宗は、日本が米英人に干渉できないことを利用して、ハルバート(米)やベッセル(英)にこっそり金を渡して反日新聞を発行させました。戦後の明治三十八年十一月には、ハルバートに密書を持たせてアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に、日本への干渉を依頼しました。大統領は「韓国のために日本とは戦えない」と、にべもなく断りましたが、この玉璽入りの写真版が公開されると、例によって偽造と言って、その事実を否認しました。あの当時韓国には「親米主戦」ともいうべき考えが強く、太平洋の彼方から韓国を助けに来てくれると無邪気にも信じていたのです。

無邪気な例をもう一つ紹介しましょう。高宗は伊藤博文統監には頭があがらず、どうにかして排除したく、僧侶を呼んで伊藤調伏(まじないによって呪い殺すこと)の祈祷をさせ、死期を占ったりしました。また金升皎という儒学者を特別顧問にして出入りさせていましたが、明治三十九年七月、金が憲兵隊に逮捕された時、「聖上曰可斬島夷伊藤博文、長谷川好道」の密勅が見つかりました。島国の夷(えびす)である伊藤統監と長谷川軍司令官を斬れ、という皇帝の秘密命令です。それを知った伊藤は少しも騒がず、皇帝に対して次のように諌言しました。「念仏、祈祷、占いなどは暗愚の君主がすることだ。山村の隠れ儒者である金升皎などは、四書五経を読んで周代(古代シナ)の治教を知っているだけではないか。世界の大勢も知らず、時勢に対応する能力もない。こんなことをするなら、孔子の昔を求めて国政を議した方がよかろう」。

ハーグ密使事件と皇帝の退位

韓国に対して常に理解を示し、皇帝に対しては皇帝として礼を尽していた伊藤統監ですが、青天の霹靂ともいうべき事件が起りました。明治四十年六月、オランダのハーグで開かれた「万国平和会議」に、皇帝が三人の密使を送っていたのです。

そもそも日本と韓国との間には、明治三十八年(1905)十一月に、日韓保護条約が結ばれています。この経緯については、本書201頁で語っているので、それに譲りますが、この条約では韓国の外交は日本が担当することになっていたのです。その条約を認めた各国は外交官を韓国から引揚げていました。しかし皇帝にとって、この条約は心から呑める内容ではありません。韓国にとっては屈辱的条約でした。それに反対して閔泳煥(びんえいかん)ら六人の高官が自決しています。せめてこの際ハーグの国際会議で、日本の圧力によって独立を失った経緯を訴えたかったのです。しかし、韓国の外交権は日本にあることを認めた各国としては、韓国代表に対して会議の参加も発言も認めるわけには行きません。オランダの新聞人中心の国際協会で演説するにとどまりました。そのことが日本にも知れわたると、真意を皇帝に質しました。皇帝は例によって「そのような命令をした覚えはない」と否定するのみです。皇帝の期待にこたえることのできなかった三人の中の一人李儁(りしゅん)は、ハーグで憤死(病死説が事実か?)しました。

この事件が日本で報道されると、伊藤の軟弱政策の失敗を衝き、一挙合併すべしという世論が燃えあがりました。さすがの伊藤も自分の真意を裏切る行為に激怒し、「日本は韓国に対し宣戦布告する理由がある」とする抗議文を、韓国政府に提出しました。それを受けて七月六日、皇帝を迎えて御前会議が開かれました。これまでの御前会議といえば、客部大臣の報告に止まり、論議しないのが通常でしたが、農商工部大臣宋秉○(そうへいしゅん)は、勇気を振って皇帝に詰め寄りました。(この会議の模様は、田端元氏の前掲原稿、『東亜先覚志士記伝・中』、韓相一『日韓近代史の空間』等に詳しい。)

「伊藤統監は決して韓国を奪おうとしているのではない。伊藤公は日本の国政に参画すること四十年。未開の日本をして強国の列に加えた。彼の欲心といえば、貧弱な我国を扶けて日本のようにしたい名誉心があるだけである。それに対して陛下は日本との善隣を破るために、一億からの金を費された(ハーグヘの密使派遣費を指す)。この巨額の資金は陛下が稼がれたのではなく、人民の血肉であった。…これまで陛下が日本の信義に背かれた事十三回、事実が暴露されれば必ず知らずと言い、罪を重臣に転嫁し、重臣を殺された事、数知れず、人を殺すこと、草を刈るが如きであった。今や新聞事件(英人トマス・ベッセルが発刊する『大韓毎日申報』に日本を誹謗する親翰が掲載)を合せて十五回目の背義に及ぶ。ただ伊藤統監が寛容の心をもって陛下の悔悟を待つ態度をとっているに過ぎない。今回は既に問題が重大化し、日本政府も強硬なる決心をもって臨んでいる。もし統監が陛下に対して罪を問うた時、責任を免れることができるかどうか」
彼はこのように切々として直言しました。すると皇帝は、
「それではどうせよと言うのか」
「およそ二つの方法がある。一つは日本に行幸して親しく天皇陛下にお詫びするか、朝鮮軍司令官長谷川好道大将に罪を謝するか。さもなくば日本との開戦しかない」
それを聞いて皇帝は激怒し、
「お前のような男を重用するのではなかった」と捨台詞(すてぜりふ)を残して奥へ入ってしまいました。その後は何回か閣議を開き、宋は閣僚に対して、
「今度の事件も内閣の責任ではない。すべて陛下の招かれた禍いではないか。退位して謝罪して貰うよりほかない。陛下と国家とどちらが重要か」と迫りました。李完用首相も「この際、韓国のために高宗に譲位して貰うよりほかない。それが王室を守る道である」と考え、その旨を皇帝に上奏しましたが、皇帝は聞き入れません。この御前会議の模様が外部に伝わり、「李内閣は乱臣賊子の団体で、宋秉○(そうへいしゅん)はその巨魁である。彼を斬るべし」という声が起り、首都は騒然となりました。

皇帝は伊藤統監に会い、
「ハーグへの密使事件は自分の知らないことである。内閣は退位を要求しているが、それは不当だと忠告してほしい」
と懇願しました。それに対して伊藤は、
「陛下がいかに弁明されても、証拠はすべて臣(伊藤自身)の手中にある。この事件は欧米も知っていることだからどうすることもできぬ。退位間題は韓国自身のことであって、自分は関与できない」と答えるだけでした。十八日、第三回の御前会議が開かれました。その時宋らは、譲位を勧告しても聞き入れられない時は、一死あるのみ、として何人かの閣僚は拳銃を用意して臨みました。会議が開かれ、各大臣が譲位を勧めても、高宗は、
「譲位するくらいなら死んだ方がましだ」と答えるのみです。そこで宋は進み出て声を張りあげました。
「それではお願いだが、死んで頂きたい。陛下が死なれれば国と王室は生きるであろう。もし陛下が死なれなければ、我々が死ぬのみである。しかし我々が死んでも、国に何の益にもならない。しかし陛下が死なれれば、国家社会は救われる。どうぞ死んで頂きたい」
かくして皇帝はやっと第二子[土+石](せき・純宗)に譲位しました。皇帝をそこまで追い込んだ宋秉○(そうへいしゅん)のすさまじいばかりの迫力には驚くべきものがあります。被の執念に似た気迫はどこから出るのでしょうか。

彼の思想の根柢をなすものは「二君に仕えず(一人の君主にだけ忠誠を尽すべきだ)」とか、「君君たらずとも、臣は臣たり(君主が君主としての務めを果さずとも臣下は臣下としての務めを果すべきだ。つまり悪い君主でも臣下は懸命に忠誠を尽すべきだとの意味)」とかいう朱子学的忠誠精神ではなく、「民を貴しとなし、社稷(しゃしょく)これに次ぎ、君を軽しとなす(君主のことよりも国民のことを第一に考えるべきだ)」(孟子)という民本主義から来ているものと思われます。それに彼は金玉均に繋がり、ほぼ十年間にわたって日本各地を巡歴しています。妻は日本人であり、日本を知悉しております。それに東亜の大局を見、どうにもならなくなった韓国の国民生活と宮廷の腐敗を立直すには、日本に接触して刺戟を受け、協調するしかないという燃えるような信念を持っていました。日露戦争にも協力し、李容九を会長とする一進会を組織し(一時、百万人の勢力を自称)、死地に身を投ずること十数回、波瀾万丈の生涯を貫きました。

現在の韓国では、宋秉○(そうへいしゅん)は、李完用、李容九と共に、売国奴の筆頭に挙げられていますが、その動機は憂国の至情に発していたことを否定できないのです。これら親日派を売国奴と呼ぶなら、親清,親露路線を歩んだ人々も同じ売国奴でありましょう。それよりも韓国にとって大切なことは、当時国際情勢の厳しさを弁(わきま)えず、事大主義に陥って国論が分裂し、国家としての対応ができなかったのは何故か、その点こそ追求すべきでありましょう。

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資料8 伊藤博文

伊藤博文は韓国併合には消極的であって韓国の自立を望んでいた。
「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
「一国の独立」は文章や宣言や示威行動によって実現できるものではないことを知ってほしいのです。独立は民族がこぞって諸条件を具体的に克服することによってもたらされるものです。他国に要望して実現したのでは傀儡になる可能性さえあります。それではどうすべきであったのか。ここでは明治40年5月30日、韓国の閣僚たちに伊藤博文統監が与えた訓示を掲げます。伊藤統監は、一国が独立することの意味を厳しく問うています。

『日清戦争後まもなく、ロシヤが、手を韓国にのばすや、韓国はそれをとがめぬばかりか、韓国独立のために謀る日本を嫌厭した。韓国は自国の独立の為には、不利なことは判りながらロシヤに追従したではないか。日清の役から日露の役に至る十年間、韓国は奮って、独立の要素を涵養しなければならなかった時期でもあったにも拘わらず。これを顧みず、或いは右に赴き、或いは左に傾いて、そのために遂に、日本が韓国のために、ロシヤと戦わねばならなくした。故に、今日、日本が韓国の外交権を手中に収めたのは、当然のことである。何故ならば、これを依然として、韓人の手中に収めて置くとするならば、韓国は何時までも、列国の競争場となり、日本の為に極めて危険だからである。然るに韓人は、今日に至っても尚、外交権を回復するだけの実力を養う努力をしようとせず、しきりに、他国の援助によって、これを日本から取り去ろうとしているようである。けれども、どんな国にせよ、他国のために、自国の財力と国民の生命を犠牲に供するものはない。……およそ国家は、自ら、独立する要素がなくて、単に、他国に寄りかかっているだけで、立っていけるものではない。今日のままで進むとすれば、韓国を亡ぼすものは、他国ではなく、韓国自身ではなかろうか。故に諸君は、反覆表裏なく、専心一意、韓国のために謀らなければならない。日本は諸君を助けて、韓国を独立させるよう尽力しつつある、然るに韓人は、日露戦争のような大激戦を目撃していながら、尚、覚醒しないのは、何事であろうか……そうだ、韓国を滅ぼすものは日本人ではなくて、内外の形勢を察せず、無謀軽挙を事とする韓人である。……自分は韓国の改善に絶望した事もしばしばである。しかしながら韓国の形勢に顧みて、忍耐して従来の方針を改めない。国は自ら立たなくてはならない。今日のようにして進むならば、韓国は、もはや、自滅の他ない。』 

朝鮮銀行」 多田井喜生 2002年 PHP新書
明治42(1909)年10月26日、伊藤博文は、ハルビン駅頭で韓国人の独立運動家の安重根にピストルで暗殺された。『馬鹿な奴じゃ』これが伊藤の最後の言葉になった。捕えられて旅順に送られた安は、検察官の訊問に対して、『人の国を取り、人の命を取らんとする者あるを、袖手傍観するということは罪悪でありますから、その罪悪を除いたのです』と陳述した。

伊藤遭難の報せを聞いたドイツ人医学者エルビン・ベルツは、「伊藤博文をしのぶ」と題した一文をすぐドイツの新聞に発表した。ベルツは東京医学校に招かれて明治9年に来日して肺臓ジストマを発見し、宮内省御用掛として明治天皇の侍医をつとめ、明治38年に帰国していた。

『伊藤が、人もあろうに韓国人に暗殺されたことは、かれが日本における韓国人の最上の知己であっただけに、いっそう悲劇である。日露戦争の後、日本が韓国に干渉の手を差しのべたとき、思いがけない抵抗に突きあたった。暴動と日本人殺害は、いつ果てるともみえなかった。そこで東京の軍部と新聞は、思い切った処置と、武力による圧制を要求した。しかし伊藤は、穏便な出方を支持したのである。かれは、腐敗し切っていた韓国の国家制度に有益な改革を加えることにより、日本の統治下にある方が優っていることを、韓国民に悟らせることができると信じていた。……ヨーロッパでは、韓国における日本側の過酷な仕打ちについてのみ聞かされているが、学校を建てたり、合理的な農業や養蚕を教えたり、鉄道や道路や港湾を設けたり、勤勉で熟練した日本の職工や農夫の手本を示したりして、日本側の挙げた業績については、何も知らされていない。しかし筆者は、3回この韓国を訪れて、親しくその事実を確かめたのである。……いつか韓国民自身が、恐らくこの暗殺を悔やむことだろう。――だが、日本にとっては、伊藤博文は掛替えがない。その老練無比の政治家を、国家は失い、無二の信頼すべき顧問を、天皇は失った』

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資料9 条約の署名問題

韓国併合条約に純宗皇帝の署名がなく、署名した李完用総理大臣への全権委任状もないことから無効な条約である、という主張があるが、純宗に署名する能力があったかどうか疑わしい。
「日本による朝鮮支配の40年」 1992 姜在彦 朝日文庫
国王高宗の息子純宗は廃人同様の人間です。(皇太子時代の)1898年に宮廷内部から排除された親露派が、怨みをいだいて紅茶に毒を盛るという陰謀事件があり、そのため廃人同様になってしまったのです。

(毒茶事件は1898年9月12日に起きた。犯人は親露派の金鴻陸で、通訳官の職を追い払われた私的怨みからで、高宗も毒茶を口にしたが後遺症はなかった。)

「梅泉野録 ―近代朝鮮誌・韓末人間群像ー」 黄○著 朴尚得訳 1990年 図書刊行会  ○=[王+玄]
(『梅泉野録』は李朝末期の野史として重要な史料、著者は黄[王+玄](こうげん)
今上(在位中の皇帝の意)・純宗の愚昧

太皇・高宗は、不明・凡庸であるけれども、なお事の可否はできた。今上・純宗は、生まれつき、愚かで昧(くら)く、空腹と満腹、寒暖を顧みることさえできない。


韓国の外交権を取り上げ保護国とした日韓保護条約(第二次日韓協約・1905年)でも高宗皇帝の批准(条約の承認)がないうえ、武力を背景に強要した条約なので無効である、という主張への反論。

Link 北の狼ファンクラブ 批准書の件 / 武力的脅迫の件
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▼ 韓国併合
〔国権の侵奪〕 高宗皇帝を強制的に退位させた日帝は、軍隊をも解散させた後、大韓帝国を植民地にするため侵奪を続けた。すなわち、大韓帝国の司法権を奪った後、警察権さえ統監府が握り、行政、司法、治安などの支配権を強化した。日帝は、李完用を中心とする親日内閣に対し、大韓帝国を日帝に合併させる条約を強要し、ついに韓民族の国権を強奪した(1910年)。この結果、長い間、独自の文化を作りながら発展してさた韓民族は、日帝の奴隷的な状態に成り下がることになった。 (韓国の中学校用国定歴史教科書1997版より) 

李氏朝鮮は世界の大勢を見誤り、鎖国を守り清の属国であり続ければ国家の存続を保てると考えていた。
「中国・韓国の歴史歪曲」 黄文雄 1997年 光文社
朝鮮半島の「植民地化」は、避けられない歴史の運命
19世紀中葉の東アジアでは、各国とも列強諸国の植民地化の危機にさらされていた。世界超大国の清国までがアヘン戦争で、イギリスに負けて衝撃を受けた。ところが、日本人は、アジアの諸民族よりも早く目覚め、開国し、明治維新に踏み切った。もっとも、それで一躍、帝国主義国家になれたわけではなかった。日清戦争当時でも、日露戦争当時でも、「必勝」と思っていた人はほとんどいなかった。たいてい日本の「必敗」とみるのが、むしろ当時としての国際的な一般的見方や予想であった。当時、東アジア諸民族の一般的な考え方は、列強諸国の東アジア進出への危機感から、日本、朝鮮、中国3国が一緒になって、列強諸国に対応すぺきだというものであったが、甲申政変によって、朝鮮の開化派が一掃された後、福沢諭吉までも、とうとう朝鮮との連携をあきらめて、「脱亜論」を発表し、「亜細亜東方の悪友どもとの謝絶」を公言した。

19世紀という時代は、列強諸国の地球分割がほぼ完了した時代である。地球上の非西洋的文化圏で、列強諸国の植民地に転落しなかった国は、ほんのわずかしかなかった。アヘン戦争以後の清国でさえ、「分割」や「植民地化」の危機にさらされ、四苦八苦するぐらいだから、朝鮮半島は、植民地に転落することが、避けられない状況にあった。歴史はそれを実証している。マルクス主義的史観からいえば、それは「一つの歴史的必然」ではないだろうか。19世紀後半から朝鮮半島は、西風東漸の影響を排除することができず、列強蚕食の場となっていた。英米仏の勢力以外にも、三つの勢力が出現した。それは旧宗主国、清の支配の強化、それに南下するロシア、さらに日本である。まず、日清戦争で清が敗退し、日露戦争では、ロシアが敗退し、日本が残ったのだ。東アジアの不安定要因は、朝鮮半島にあると列強諸国はみていた。日露戦争後の列強諸国のバワー・オブ・バランスからみれば、アジアの「永久安定」のためには、「朝鮮半島の日本保護国化」がどうしても必要であった。だから、日露戦争後に締結されたポーツマス条約(1905年)では、ロシアもそれを承認し、アメリカのルーズベルト大統領も「自立できない国家はそれしかない」とそれを認め、東洋平和のために「将来の禍根を根絶するためには、韓国の保護化が絶対必要」と小村寿太郎外相に述ぺていた。かくて、桂・タフト米陸軍長官との協定(1905年)でも、イギリス政府は朝鮮の日本の保護国化を承認したのだった。


当時は帝国主義時代でいわば地球規模の戦国時代であり、新時代に取り残された弱小国の存続は困難であった。

朝鮮は自国を防衛する能力のない国であった。
「NOといえる教科書」 藤岡信勝・井沢元彦 平成10年 祥伝社
当時の(李氏)朝鮮の軍備というのは誠にお粗末で、人口1300万に対して正規軍はわずか二千数百。警察に毛の生えた程度のものですね。どうしてそうなったのかはわかりませんが、高麗朝の時期ですら、人口はその半数以下で、中央軍を4万5000持っていたわけです。ですから、当時の朝鮮が自国を防衛する能力のない国であるというのは、世界周知の事実でした。とにかく早急に近代的な軍隊をつくらなければいけないということで、旧式の軍はおいたまま、新式の洋式軍隊を設けます。これは別技軍といわれますが、創設と兵士の訓練には、日本が指導にあたりました。

国防どころか壬午軍乱、甲申政変、東学党の乱(甲午農民戦争)いずれも朝鮮自身で鎮圧できず、宗主国清に援軍を頼んだものである。

朝鮮亡国の原因は朝鮮人自身にあった。
「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
中央・地方政治の腐敗と停滞

李氏朝鮮から大韓帝国に至った韓国ですが、政治の宿弊がたまってどうにもならなくなっていました。いま指摘すれば韓国から反発を買いますが、併合の必然性というべきものがあったことは、歴史の事実として無視することはできないのです。李朝では、19世紀初頭から、幼い王が四代も続いたために政治の実権は王の外戚の手に移りました。これを勢道政治と呼んでいます。そのため王の外戚が要職を独占し、賄賂の横行と売官売職などの不正行為がまかり通り、政治機構は極度に紊乱しました。韓国の歴史教科書も、次のように書いております。
勢道政治による中央政治の不正・腐敗と堕落は、そのまま地方政治に波及し、地方の官吏や郷吏は権力を乱用して私利私欲をむさぼった。彼らは法律にない各種の税金を思い通りに徴収し、百姓を捕らえては罪名を着せ、財物を略奪したりする風潮が生じた。
教科書は更に数ページを割いて腐敗の実例を挙げていますが、ここではそれを証言する日本人の言葉を紹介しましょう。それは坪谷善四郎が「北清戦観戦記」の中に書いたものです。北清事変(義和団事件)といえば1899年から1901年までの事件ですが、その観戦記の中で日清戦争後の朝鮮事情を次のように紹介しています。
朝鮮の政治的命脈は気息奄奄(きそくえんえん)であった。何時滅亡するかといふ状態だった。鶏林各道(朝鮮半島のこと)の山河は、開拓すれば将来、大富源となることは疑ひないところだった。だが、政治は腐敗し、堕落は横行し、巨費を投じて官を買ふ徒は財を奪ふなど人々を苦しめた。十三の長官などは、三年その職に居れば子孫は三代の後まで寝転んでわが世の春を謳歌できた。かういうのが実状だから、富めば役人に奪はれるため、人々は働いて富を得やうとするものはない。人民は怠け者となった。その日暮しの衣食住さへ足りればいい、とした。土地があっても耕さない。鉱山があっても採掘もしない。漁民も働かない。山林は乱伐にまかせた。国をあげてその日暮しである。かうして国運は日に日に衰へる一方だった。

「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
清朝末期の戊戌維新の主役で、近代中国政治、文学、思想会の重鎮でもある梁啓超は、朝鮮亡国の原因について、李朝宮廷、政治、社会の三点にあると説き、朝鮮を滅ぼしたのは朝鮮人自身で、日本が原因ではないとし、朝鮮は滅ぼされたのではなく、自ら滅びたのだと次のように説いた。立憲君主論者の梁啓超の見方によれば、『立憲君主制が確立されていない専制国家の運命は、すべて宮廷とつながっている。全国民はことごとく君主一族から害毒をこうむる。宮廷から見ると、君主専制国家、朝鮮の滅亡は、大院君と高宗二人の責任にある。大院君は酷薄(むごく薄情)、残虐、驕慢(えらぶる)にして猜疑心が強い。権謀術数のみ知って大礼を知らない。彼こそ亡国最大の元凶である。高宗は懦弱にしてふるわず、優柔不断、讒言(人をおとし入れるため、事実を曲げる)を好み、事理には暗い。側近は阿諛迎合(おべっかを使い、とり入る)の徒が多く、小さな恩恵を施し、小手先の策を好んでそれもまたすぐにぱれてしまう。人に頼りすぎて自主が確立されない。虚飾を好み、実を努めない。政治を操る閔妃と高宗はじつに、悪女と愚君である。このような君主が国を滅ぼさない例は、歴史上ほとんどなかった』という

梁啓超によれぱ、李朝社会とは、貴族と寒門(貧しい家)の階級が歴然と存在し、両斑(特権階級)は一切の権利を壟断(ひとりじめ)する。国中で独立人格と自由意志を持つ者は貴族のみで、しかしながら、彼らはすべて社会の諸悪の根源である。彼らは仕官のみを志し、繁文縟礼(規則、礼法が細々してわずらわしい)。民衆に対しては禽獣畜生のごとく扱い、搾取略奪した財産を国庫に入れるのは三分の一にも満たない。徒党を組み、私腹を肥やして殺し合う。とはいっても彼らは政治とは何たるものかを知らず、世界の大勢も知らない事大主義(勢力の強大なほうになびく)で親日・親露・親中ところころ変わる。帰国した留学生が千人近くいても、ほとんど猟官(官職にありつこうとして運動すること)に忙殺される以外には、社会のことをほとんど顧みない。学校一つもつくらず、本一冊さえ書かない。翻訳一つでさえものにはならないありさまだ――だという。

梁啓超によれば、朝鮮人は空論を好み、激情にして怒りっぽく、ややもすれば命知らずですぐ立ち上がる。それなのに瞬く間に死んだ蛇のように、いくらつっついても動かない姿に変わる。朝鮮人は将来のことはほとんど考えない。庶民は腹一杯になれば、すぐ木陰で、終日清談に耽り、明日のことはすっかり忘れてしまう。高官も今日の権勢さえあれぱ、明日は亡国となってもほとんど気にしない。日本が統監府を設けた後、朝鮮人の政権争奪は、以前にも増して激しくなり、合併後には、隣国の人々さえ慟哭せざるをえないのに、朝鮮の顕官(高官)たちは、いっそう新朝廷に阿諛迎合して、日々猟官運動に忙殺されるありさまだ。安重根のような人は、億万人中に一人や二人も得られない。朝鮮社会は厚顔無恥、陰険悪辣な徒が多く、節操自愛するものが少ないので、亡国は朝鮮人社会がそうさせたのだろう――とも述べている。それ以外にも、梁啓超は、今までの朝鮮の軍事、政治、財政、貨幣改革はすべて役に立たず、外交に至っても、ただ権謀術数を弄するに終始しているとも指摘している。



韓国併合を非難する人は、李朝時代が豊かで平和な楽園であったとでも思っているのであろうか? 李朝末期の朝鮮は政治が乱れに乱れていた。役人や両班は自らの栄達と蓄財のみを求めて、弱い民衆を搾取することだけしか考えていなかった。そのため社会道徳が乱れて、精神も、文化も、経済も疲弊していた。
「韓国 堕落の2000年史」 崔基鎬 平成13年 詳伝社
両班に収奪される民衆の怨嗟の声

李氏朝鮮の、民衆に対する収奪がいかに苛酷なものであったか、文学にも表われている。李氏朝鮮末期の代表的な知識人だった李人稙(1862-1916年)が、『血の涙』という詩をつくっている。

  両班たちが国を潰した。
  賤民は両班に鞭打たれて、殺される。
  殺されても、殴られても、不平をいえない。
  少しでも値打ちがある物を持っていれば、両班が奪ってゆく。
  妻が美しくて両班に奪われても、文句をいうのは禁物だ。
  両班の前では、まったく無力な賎民は、自分の財産、妻だけではなく、
  生命すらその気ままに委ねられている。
  口ひとつ間違えればぶっ叩かれるか、遠い島へ流される。
  両班の刃にかけられて、生命すら保つことができない」
     (『韓国現代史』第8巻、新丘文化社、ソウル)
(中略)
丁若[+]が、流刑地の全羅南道の康律で、地方役人の事蹟を収録した『牧民心書』は、今日も評価が高い。地方の役人の百姓に対する苛斂誅求の甚だしさを、ありのままに記録している。一例を挙げると、兵役税の名目で、兵員1人を徴集する時に、5、6人に令状を出して、余分の人員から徹底的に金を徴収して、役人が着服した。たとえば一家に祖父と父と孫が同居していて、祖父が兵役に耐えられない老齢でも、孫が5、6歳で幼かったとしても、きっちり人数分の兵役税が徴取された。なかには、子どもが多く、税金を納められない貧しい家の主人が鋏で自らの性器を切断し、それを妻が陳情目的で役所に届けたが、門前払いされたなどという悲しい話もある。518年間続いた李氏朝鮮も、北朝鮮のこれまでの56年間の歴史も、中国の悠久の歴史も、残酷きわまる流血の歴史である。百姓を奴隷の境遇に転落させ、文字どおり限りない収奪と、大量の餓死が繰り返された。

「韓国人、大反省」 1993年 金容雲 徳間書店
そのころの地方官吏の横暴ぶりはとても口では表現できぬくらいだった。とりわけ軍の乱れと腐敗は酷かった。民衆を軍にかりだす過程で、金のあるものは穀物や木綿を差し出して徴兵を免れたが、これが次第に制度化するにつれ、村の頭や役人がありとあらゆるサギを働くようになったのである。子を孕むと、まだ生まれないうちから子を軍籍に入れ、子犬や牛にまで名前をつけて軍籍簿に書きこんで、税を取り立てるありさまだった。

丁若[+]の代表作、『牧民心書』には、当時の現実と軍政の乱れを詠んだ詩が載っている。

. 葦原の若い女の泣き声も寂し
懸門に向かって泣き叫び、天を仰いで訴える
男女が夫婦とならざるは法のなせるわざ
昔(いにしえ)より男絶陽は聞いたこともなし

上の詩を書いた動機が同書に、次のように詳しく説明されている。これは1803年秋、私が康津にいる時に作ったものである。芦原に住む男に子ができて三日後、もうその赤ん坊は軍の名簿に編入され、その子が徴兵に応じられない代償として牛をとられた。男は刀で自分の男根を切り取って『わしはこいつのおかげで酷い目に会う』と嘆いた。妻が夫の男根をもって官庁に抗議をしに行くが、まだ血がたらたらと流れている。泣いて訴える彼女に、門番は非情に立ちふさがったという。私はその話を聞いて、この詩を作った。

官吏は腐敗し、民衆は無力だった。兵営には無能な将兵しかおらず、武器はサビついていた。匠人(職人)も、意欲ある商人も見られなかった。皆が惰眠をむさぼり、ただ日々に流されていた。先覚者の丁若(+はこのような事実を直視した。彼は朝から晩まで筆をとり、現実の矛盾を告発しつづけた。しかしその声は、ぐっすりと眠っている人たちを目覚めさせる警鐘となるほど大きくはなかった。
(中略)
日本は韓日併合の20年前に、すでに鋭い目で李朝の実状を観察していた。日本のあるスパイは、朝鮮政府が実際に消費する金は日本の金で300万円程度であるが、国民の出す税金の総額はその10倍以上であることを調べだした。国庫へ入る金以外、つまり10分の9の金は言うまでもなく官吏が横取りしていたのである。この日本のスパイは、朝鮮の悪徳官吏が横領した金をそのまま国庫へ納めれば、李朝の人心はきっと日本へ向かうとにらんだ。言わば、李朝の腐敗が日本の侵略を呼んだわけだ。鎖国により外国の目を避けることばかり考えて、内部の自立と自覚をないがしろにしたのだ。


「30年前の朝鮮」 バード・ビショップ 1925年 (「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社より)
朝鮮の官吏の腐敗は目にあまった。私は遠慮なく朝鮮官吏を批評する。彼らは民の膏血を搾り取る吸血鬼だ。彼らは任地に赴かずソウルにあって宴楽をほしいままにし、自己の管轄内の住民を保護し善導することがまったくなく、虐待し誅求するのだ。朝鮮の事物はことごとく低級である、貧弱である、劣等である。特権階級の猖獗、官吏階級の誅求、正義公道の全滅、財産の不安、取得の危険、政府の頑迷等などことごとくこれ朝鮮自滅の禍根である。さらに国王は後宮に耽溺して億兆の赤字を顧みない

李朝末期は平和な国でもなければ楽園でもなかった。民衆は冷酷非情な支配者により絶望的で悲惨な生活をしいられ社会が停滞しきっていた。

日本は乱れきっていた李朝末期の韓国社会を正した。これは日本による改革・日韓併合を支持する声である。
「悲劇の朝鮮」 アーソン・グレブスト 1912年 (高演義・河在龍訳 1989年 白帝社)
『死刑の執行を見た。身動きのできぬ囚人の足の内側に棒を挟んで、執行人たちは自分の体重の全てを棒の片端にかけた。囚人が続けざまに吐き出す叫び声は聞いていて実に凄絶なものだった。脚の骨が砕けつぶれる音が聞こえると同時に、その痛さを表現する声さえももはやないかのように、囚人の凄絶な悲鳴も止まった。執行人らは囚人の腕の骨と肋骨を次々と折ってから最後に絹紐を使って首を絞めて殺した。――理由が何であれ、こんな状況がまだこの地球上の片隅に残っていることは、人間存在そのものへの挑戦である。とりわけ私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が(李氏)朝鮮を手中にすれば、真っ先にこのような拷問を廃するだろうという点だ。』

「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
『宗主国中国の影響のもとに、朝鮮の両班たちは貴族社会の全体的風潮である搾取と暴政をこれまで事実上ほしいままにしてきた。この点について日本は新しい理論を導入し、庶民にも権利はあり、各階級はそれを尊ばなければならないということを一般大衆に理解させた。朝鮮の農民には、日本と西洋の指導手段を通して、食いものにされるばかりが自分たちの運命ではない、自分たちも市民としての権利を持ち、法的見地から見た平等に値し、収入を守られるべき存在なのだということが徐々にわかりはじめてきたのである。(中略)朝鮮における日本の政策はいまでも同一の卓越した政治家たちによって具体化されており、その政治家たちとは、日本が国際外交の舞台に躍りでたその日以来、文明開化の道をふさぐ複雑多岐な障害をみごとに切りぬけて国を導き、世界が賞賛を禁じえない手腕を示した人物たちであることも忘れてはならない(明治維新で日本を近代化させた実績のある官僚たち)

「大東亜戦争への道」 中村粲 平成二年 展転社
日露戦争中に締結された第一次日韓協約後、韓国の外交と財政は事実上、日本の指導を受けることになったのだが、この保護化を第三者はどう見たか。米国の著名な外交史家タイラー・デンネットは、かう書いている。『韓国人は、その最近の歴史も駐米外交官たちも、ルーズヴェルト大統領の尊敬や称賛の念をひき起こすことができなかった。……大統領にとって、長い間海上に遺棄され、航海に脅威を与へる船にも似た韓国が、今や綱をつけて港に引き入られ、しっかりと固定されなければならないことは明らかだつたやうに見える』保護化は東亜政局の安定上、やむを得ぬ結論と見てゐるのだ。ルーズヴェルト大統領は日本の韓国保護化に何の干渉もしなかった。それは『韓国は自分を守るために一撃すら与へることができなかったから』(ヘイ国務長官宛て短信)なのである。英外相ランズダウンもまた『韓国は日本に近きことと、一人で立ちゆく能力なきが故に、日本の監理と保護の下に入らねばならぬ』と書いた。(中略)日露戦争中、英国は日本の韓国保護化を承認した。日露戦争勝利後に開かれたポーツマス会議を終へた小村寿太郎にルーズヴェルトは云った。『将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ、それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策なるべし』と。ランズダウンの如き『英国は日本の対韓国措置に異議なきのみならず、却って欣然その成就を希望する』とまで云ひ切った。

「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998 光文社
◇朝鮮の外交顧問であったアメリカ人 ドーハム・スティーブンス
『朝鮮の王室と政府は、腐敗堕落しきっており、頑迷な朋党は、人民の財宝を略奪している。そのうえ、人民はあまりにも愚昧である。これでは国家独立の資格はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされるであろう。伊藤(博文)統監の施策は、朝鮮人にとって有益で、人々は反対していない。』

「日本と韓国」 八木信雄 昭和53年 (「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画より)
◇アメリカ人宣教師 ラッド博士
『韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる進歩的であり、円満である伊藤(博文)総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代にに進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に二倍の進歩を遂げた』

◇アメリカ人宣教師 ハリス博士
『私のみるところをもってすれば、伊藤公の統治は最大なる賞賛に値するものであり大変満足しております。韓国民は今ようやく彼をもって自分達の友人であると知ってこれを事実の上に現し始めました。過去三年間の間における韓国の進歩の大きいことは、実に私をして総監政治の最も熱心な支持者たることを告白せしめます。私は伊藤公の必ず成功すべきことを信じて疑わない者であり、また、全ての宣教師及びその他の韓国における文明開発の義務を知る者は等しく伊藤公の統治を支持しなければならないと思います』

「海外の新聞にみる日韓併合」 杵淵信雄 1995年 彩流社
◇ニューヨーク・タイムズ 1904年9月28日号より
『日本人は朝鮮との間に追加条約(第一次日韓協約)をどうやら取り決めた。条約によって望ましい改革への道が開ける。それは朝鮮の利益にとって望ましいばかりでなく、疑い無く日本の為にも望ましい改革である。朝鮮は日本人の財政顧問と日本の信任を受けている外交顧問の採用を誓約している。(中略)日本人は朝鮮が進歩の名に価する進歩を達成するためには、外にも数え切れない改革が肝要なことをよく知っている。しかしまた、この時代の朝鮮が自発的にこれらの改革を採用する見込みのない事も、よく知っている』

◇ニューヨーク・タイムズ 1905年4月29日号より
『朝鮮でいま目にする変貌の光景は素晴らしい。すでに実施された統治の諸改革は見事であり、国民には混じりけなしの恩恵となっているが、皇帝にとってや、宦官、占い師、易者、外国人寄生虫からなる宮廷には狼狽の種になっている』

◇上海の英字紙ノース・チャイナ・ヘラルド 1905年11月24日号より
『朝鮮を知る全ての人は朝鮮人には多くの美質があると認めるのであるが、朝鮮人が大好きな者でも、朝鮮は20世紀には独立国としてやっていけないと認めざるを得ない』

◇ロシア・ジュルナル・ド・サン・ペテルスブール 1910年8月26日号より
『ニュースはいまだ公式に確認されていないが、日本の朝鮮併合は既成事実となっているように思われる。……文明とは平和主義の道における前進であり、この観点に立てば、朝鮮の併合は極東の繁栄と発展の新たな起因となるだろう』

◇上海・申報 1910年9月1日号より
『韓国は滅んだ。しかるに韓国の皇帝はニコニコとし、韓国の家臣は歓び、太上皇(高宗)もまた恨みを残さない。均しく外国の寵遇を得意としているようだ。ただうつうつとして不平を抱いているのは韓国の学生だけだ』

「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
◇ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙より

『韓国は多年、その自主独立の政治が出来なくて、過去数世紀の間、支那の宗主権を承認していた。日本がこれを、その境遇から救った後は、日・ロ間の係争地であった。ついで、日本は、またまた、これをロシヤの圧迫から脱けさせるや、財政に、行政に、日本の忠言指導を受けることになり、外交のことは、挙げてこれを、日本にまかせた。それ以来、韓国は、少なくとも露・仏・英諸国が、その付属国民に対すると同様の恩恵に浴するに至った。けれども、近来、韓国は、いたずらに名を無実の独立国に借りて、陰謀、姦計を弄し、隣国の激怒を招き、威喝、否戦火を蒙った。これが、実に、日清、日露の二大戦役を実現したゆえんである。ここでこそ韓国の地位に、根本的な改革を加え、それによって禍根を除去するより外はない。……故に吾人は、日本保護の下における韓国に対し、喜んで、そのいわゆる独立に永遠の離別を告ぐるものである』


◇洪鐘宇 青柳綱太郎著「李朝史大全」より
洪鐘宇はフランス帰りの開化派として国王の命令で金玉均に近づきました。そして金玉均をうまく上海に連れ出して暗殺に成功し、帰国するや平理院裁判長に栄進しました。また、独立協会(開化派)の勢いが盛んになったとき、洪は皇国協会の会長としてテロ団を組織して弾圧の急先鋒となりました。このように反日派として政界の汚れ役を任じた彼でした。やがてその彼が国王の過失を非難したために、遠ざけられてしまいました。彼はかねてから「京城新聞」の主幹であった日本人の青柳綱太郎と親しくしていました。彼は青柳に対して、次のような本音を漏らすようになりました。
『こんな国王を戴きながら、韓国が滅びないのは僥倖(幸運)だ』 『韓国も今や末路である。亡びざる国はなく、四千年の旧邦も今は断末魔に近づいている。一進会員ならざるも庶民はこのうえ塗炭の苦しみにまみれたくなかろう。むしろ、日本は速やかに併合して日本天皇陛下の政によりて1200万国民が蘇生する事を得れば、国は亡んでも亡び甲斐ありと言わねばならない』
一貫して韓国王の意図に従ってきた人物の発言だけに痛烈です。


◇李成玉 「李完用候の心事と日韓和合」より
李成玉は、朝鮮時代、全権公使としてアメリカに行きました。彼が各民族に接してみると、朝鮮人は、米国人に軽蔑されているアメリカ・インディアンよりも劣り、その他メキシコ、インド、ポーランドなどの民族よりも劣っていることを知り、衝撃を受けます。そして次のように述べています。

『現在の朝鮮民族の力量をもってすれば、とても独立国家としての体面を保つことはできない。亡国は必至である。亡国を救う道は併合しかない。そして併合相手は日本しかない。欧米人は朝鮮人を犬か豚のように思っているが、日本人は違う。日本人は日本流の道徳を振り回してうるさく小言を言うのは気にいらないが、これは朝鮮人を同類視しているからである。そして、日本は朝鮮人を導き、世界人類の文明に参加させてくれる唯一の適任者である。それ以外にわが朝鮮民族が豚の境遇から脱して、人間としての幸福が受けられる道はない。日韓併合が問題 になるのは、変な話だ。我が輩の併合観は、欧米人の朝鮮民族観を基に考察したのだ』


朴栄普iぼくえいきつ) 「五十年の回顧」より
朴栄浮ヘ、併合前の明治35年に日本の陸軍士官学校に入校し、帝国陸軍少佐を経て日本統治時代に道知事にまでなった人です。彼はその著「五十年の回顧」(昭和4年)の中で、日韓併合による韓国滅亡を次のように教訓化しています。

『公平無私なる観察を下すときは、いくら日本の朝鮮統治に反対しても善政は善政に相違なく、如何に伊藤(博文)公を毛嫌いしても公の真意には感謝せざるを得ない、とはある評者の言であった。究竟するに韓国を亡ぼしたのは日本でもなければ之を責めるにも当たらぬ。また当時の李完用始め自余の責任者でもなければ之を攻撃するの必要なし。詮ずるところ、その責任は二千万同胞にあるのである。思うに韓国自体が独立の要素を欠き、独力独行することが出来なかったためであって、古今問わず韓国国民全体が無気無力為す事なかりしの致すところであって、まことに自ら招ける禍であると云わねばならぬ。日露戦後、日本は前例に鑑み(日清戦争後の処理を指す)韓国の保護啓発に努力したるも韓国の上下は少しも日本の誠意を理解せず陰謀を策し、詭謀を企て陰に陽に敵対行動を取ったので日本はついに止むを得ず最後の手段として日韓併合を断行するに至った。・・・今日あるは自業自得であると云わねばならぬ』


閔元植(びんげんしょく) 「朝鮮騒擾善後策−鮮民の求むる所は斯くの如し」より
閔妃皇后の血統をひく閔元植は、12歳から日本で学び21歳の時朝鮮に帰ると統監府の官吏となった。33歳で高陽の郡守をしていた時三・一事件に遭遇した。

『このたび3・1独立運動の近因は、米国大統領ウィルソンの提唱した民族自決主義を、欧州戦線と何ら関係のない朝鮮にも適用されるものとする誤解から起こった。もしくは誤解を装うて、ひょっとしたらうまくゆくかもしれないと狙った在外朝鮮人の扇動に由来した。もっと言えば初めから実現できないと知りつつ妄動を企てた感がある。常識的に見れば、狂気の沙汰と言えよう。しかし朝鮮人が、日本の統治政策に深い不満を抱いていることは確かである。この対策を考えねばならない』 『日本政府は併合以来、十年近く、朝鮮人の生命財産を保護し、国利民福を向上させる点に於いて用意周到であった。運輸交通、金融機関の整備、農工各種の産業の発達等、旧朝鮮時代の悪政から朝鮮人を解放し、夢想もしなかった恵沢をもたらした。にも拘らず朝鮮人の性情が偏狭、我執に傾いているためか、口では感謝しながら、心では淋しさを感じ朝鮮人の自尊心を傷つけるなどと思う者が多い。 更に朝鮮人は米国を自由郷、現世の楽園のように思っている者が多い。しかし、そこは白人の天国であって、有色人種の人権はほとんど認められない。パリ平和会議で、日本が人種差別撤廃を提唱したが、オーストラリアのヒュース首相が強硬に反対し、それを真っ先に支持したのは米国のウィルソン大統領でなかったか。米国の庇護に頼って光栄ある独立が達成できるなど不可能の事である。日本統治下の朝鮮人は米国に比べて遥かに幸福であることを認識し、穏当な方法によって民権を拡大してゆくことを講ずべきである』
(米国大統領ウィルソンの提唱した民族自決主義とは、第一次大戦時のドイツとその同盟国の支配下にあった東欧地域の諸民族独立を支援する地域限定のもので、日本とは無関係なものである)

金文輯(きんぶんしゅう) 「朝鮮民族の発展的解消論序説」より

『数千年にわたる過去の朝鮮史、ことに李朝500年史だけをとりあげてみても、完全な独立の道などは一場の夢にすぎないことはわが朝鮮自身の常識である。いわんや最近50年の国際情勢、とくに日ましに険悪の度を増すこれからの世界史相を展望するとき、朝鮮が微弱なままに一度自立してしてみようというのは、… 最初から問題にならないのである。してみると、いまわれわれに残された唯一の道は、肉体的にも精神的にも内地人(日本人)と同族になって、一切の義務と権利を享受しようという皇国臣民の道である』


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